人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

「ゲームが好き」と言いながら、心のなかでゲームをすることに罪悪感がある話

 こんにちは、こんばんは、おはようございます。

 タイトルのとおりですが、私自身ずっと自分はゲーム好きだと思っていたし、そう言っていました。しかし、ふと思ったのです。そう言いながらもゲームをすることに罪悪感を持っている、更に言うなら、無意識的にある種の見下しをしてしまっている可能性が高いと。

 しかし私自身は間違いなくゲームが好きで、ゲームを楽しんでいるのも事実。

 この矛盾は何かということを、ちょっと吐き出したくなりました。

 はい、ここから先は「トラウマ」とか「親子の葛藤」とかの話になります。苦手な人は今すぐ逃げてください。見ていて気分が悪くなった人も逃げてください。これは私個人の思いを書いただけものであり、大したものではありません。

 で、『「ゲームが好き」と言いながら、心のなかでゲームをすることに罪悪感がある』についてですが、大体の人がすでに理解していらっしゃるでしょう。親との子供の頃からのやり取りです。ここに書くのは恨み言のように感じられると思いますが、どちらかというと気持ちの整理をつけたいと思っているからです。また、同じような境遇の方がおられるのなら、「何も心配いらないし、問題もないんだよ」と気づいてください。誰も悪くないのです。

 私の親、特に母親は、ゲームが嫌いです。私がゲームをしていると「それの何が面白いの?」とよく言ってきました。また、私がゲーム音楽が好きでサントラを聞きながら宿題をしたり、単純にボーっとしていると、やはり「それの何がいいの?」と言ってきました。好きなゲーム音楽を聞いてテンションが上っている状態でそれを言われると、逆にテンションが下がります。クラシック音楽を聞いていると何も言われないのですが。

 わかりやすいエピソードを一つ。『ゼノサーガ』というゲームをご存知でしょうか。あのゲームが発売された頃、私は色々あって人生が辛い時期でした。それでもかろうじてゲームはできたし、音楽が素晴らしくて何度も聞いていました。そして『ゼノサーガ』のサントラを聞いていると、たまたま母が部屋に入ってきました。その音楽を聞いて、クラシックだと勘違いした母が「クラシックを聞いているのか」と言ってきたので、ゲーム音楽だと答えました。すると表情が変化しました。特になんてこともない表情だったのが、一気に目を吊り上げ、忌々しいものを見るかのような目になり、「こんなもののどこがいいの」と吐き捨てました。クラシックだと勘違いしていたときはおそらくいい音楽だと思っていた、そこまでではなくとも、少なくとも悪くは思っていなかったはずなのに、ゲーム音楽だと知った途端に豹変しました。「ゲーム」であるということだけで、母にとっては低俗なものなのだと言うことだという、わかりやすい例だと思います。

 こういった母の態度はゲームに限ったことではありませんでした。

 私は漫画もそれなりに読んでいたと思いますが、私が買ってくる漫画に「またそんなの買ってきて」と文句を言うことはよくあることでした。しかし、漫画を読むこと自体は問題ないという態度でした。母は自分が良いと思っている漫画を買ってきて、私にくれることがありました。実際とても面白い漫画ばかりでした。萩尾望都さんといった方々の名作漫画ですから、面白くて当然だったと思います。

 しかし、そういった漫画が面白いことと、私が自分で選んで買った漫画が面白いことは矛盾しないし、文句を言われる内容ではないはずです。

 ようするに、母がいいと思っているもの以外は否定することが基本的な母のスタンスでした。化粧品ですら、母親がいいと思っているものでなければ文句を言われる始末です。今では当たり前のオールインワンのものを使用していると、「化粧水と乳液をきちんと使え」と言われ、無視していると「前はちゃんとしたやつを使ってたのに!」と声を荒らげられる始末でした。

 無視したらいい、と思うかもしれませんが、ようするに幼い頃からずっとこのスタンスでした。良い悪いに関わらず、子供は身近の大人を見て自分の価値観を育てますし、学んでいきます。私は表面的には親に対して反抗的でありながら、無意識レベルでは母親に見捨てられる恐怖、というものを育て続けていました。成長したら、独り立ちしたら、そういったものからすっぱりと手を切れる、といった簡単なものではありません。親との関係が人生においていろんな問題を起こすことは、多くの方が知るところでしょう。まさに死ぬときまで、その関係に縛られたままの人も多くいます。

 私はカウンセリングを受けたり、瞑想をしたり、本を読んだりして、なんとか対応しようとしてきました。そういったことをしている中、ふと思ったのです。

 自分はゲームが好きなはずだし、そう言っているが、幼い頃からの母親との関係から、心の奥底ではゲームというものを見下している部分もあるようだ、と。

 そういう学習をずっとしていたので仕方ない部分もあるわけですが、理解すると納得もできました。ゲームをしていると楽しいはずなのに、楽しんでいない自分も確かにいたのです。楽しいはずなのに、ふとした時に「そんなもののどこが楽しいの?」と言われ続けたのですから。子供にとって親は絶対の存在です。その親が自分の楽しいと思っていることを否定してきます。

 親に見放されるということは、死ぬということでもあります。人間の本能はそのように判断します。また、自分の好きなものを否定されるということは、結局自分そのものを否定されることと同じです。ゲームをしている自分を否定される、結局は自分そのものを否定されるということです。漫画にしろ、他のことにしろ、母やいつでも私が自分で良いと思って選んだものを否定し、自分のいいものを押し付けてこようとしました。そして私が母親の押し付けてくるものを否定しようとすると、「そんなつもり無いよ!」と自分が可愛そうだと言わんばかりに泣くか、般若のような顔をして激怒するかでした。

 私はもう親元にはいませんが、あと一歩のところで母親との学習の成果から逃れきれていないようです。文句を言っても仕方のないことです。あとは私が、自分から、手を切ればいいだけなのです。

 ゲームが好きだと言いながら、実際に楽しいと思いながらプレイしながら、無意識下ではゲームを否定する自分もいます。単純に日々の学習の成果です。そして、自分の中で真反対のエネルギーが働くことになり、本当に素直に楽しめないし、かと言ってゲームから離れていると「ゲームしたいのに」になります。

 ゲームをしても、しなくても、今の状態ではエネルギーを無駄に消費します。で、どうなりたいかというと、「ゲームは楽しい」だけの状態になり、心の奥底から、素直に、無意識レベルで楽しめる状態になりたいだけです。

 自分が好きなものを、自分自身で認めていないということは、結局自分を認めていないことになります。「ゲームをしたい自分」「ゲームが好きな自分」を認めないということは、そういうことになります。自分で自分を責め続けている状態になっているということです。

 本心から「〇〇が好き!」と言っているのにも関わらず、全力を向けることができない人は多いと思います。それは、その〇〇を認めていない自分が無意識下にいるからです。それは当然のことですし、だめなことではないはずです。

 ここで私が「ゲームが好きな自分を認めない自分は消えてしまえ!」といったところで、それを実行しようとしたところで、何一つ問題は解決しません。だって、無意識下にいるその自分は、ただ生きるのに必死なだけですから。こういうエネルギーを「インナーチャイルド」「トラウマ」等と言ったりするそうです。他の呼び名ももちろん色々ありますが、それはおいておきますね。

 結局、そのときはその選択肢以外あり得なかった、そうならざるを得なかっただけなのだと理解しています。でも結局その状態であるが故に、両方が辛い状態になってし待っています。

 どうせなら、楽しいことは楽しい、好きなことは好きだと、言える自分であることを選びたいですが、同時に、そうせざるを得なかった当時の自分、無意識下にいて自らを守るために必死になっている自分が悪いわけではないので、無碍に扱いたいわけでもないのです。そうしたところで問題はむしろ悪化するでしょう。

「自分を守っていてくれてありがとう。今まで本当にありがとう。でも、もう大丈夫なんだよ」

 そう言って、感謝の気持ちで送り出すのが一番です。なにか悪いことをしていたわけでは決してないので。そうは言われても、「本当に安全なのか? どうせまだ大丈夫じゃないんだろう?」という気持ちになるのもわかるんですよね。両親ともに何度も手のひらを返してくれているので。

 私としては平和的に手を取り合って問題ないと証明して、お互いが平穏に暮らせる状態になりたいと思っております。

 ゲームに限らず、私のような状態になっている人は多くいらっしゃるでしょう。私は気がつくことができたことが大きな一歩になったと思っていますので、たぶん平和的解決はもう少しだと確信しています。

 そのさらなる一歩として、ここに書かせていただきました。

 同じようなことで悩んでいる人がおられましたら、何も問題ないとお考えください。私はそう考えることにしました。

 では、お疲れ様でした。失礼します。