人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

フリーゲーム『ナントカ三術将』感想色々 その漆

 こんばんは。

 「三條」様制作フリーゲーム『ナントカ三術将』シリーズ感想、7つ目を書かせていただきます。

 よろしくお願いいたします。

※ネタバレ配慮は一切ございません。プレイ後にお読みください。

※スピンオフ作品『占択◇スクランブル』は未プレイです。

※『ニチジョウ三術将』などの後日談や設定資料集も未読ですのでご了承ください。

  では、感想リンク集です。他の感想記事に行けます。

zaturon.hatenablog.jp

 では、よろしくお願いします。

 

 今回書かせていただきたいのは『ナントカ三術将3』のラスボスの彼。
 とりあえず、彼に関しては「骸」と呼ばせていただくことにする。
 恐らくこの時点で「失礼!」と考えている人も多くいらっしゃることと思われる。「死体」とか「朽ちた木の幹」などという意味合いがあるのだから、当然である。
 私は彼のことが好きか? と聞かれれば無論「大好きです」と胸を張ってこたえるが、なんとなく「ウソつけ」とか言われそうな気もする。
 まあ、とりあえず先に進めてみよう。
 彼が根本的に何者であるか。究極を求めて多くの命を糧として永き時を生き延びる探究者、とのことであるが、私はかなりアレなツッコミを入れてしまった。
「『Fate/stay night』のマキリ・ゾォルケン(間桐臓硯)みたい」
 マキリは自分自身を保つために定期的にヒトを喰っていたし、求めていたのは魔術師における究極だった。「骸」は己の目的のために多くの命を犠牲として在り、その目的が究極の探求であったらしい。変に自分の中でこの二人がかみ合ったのである。
 ちなみにマキリが元々目指していたのは「この世すべての悪の根絶」だったとのこと。しかし彼がゲーム内で行っていたのはその真逆であったというかなり皮肉な存在と化していた。永き時を生きるうちに本来の目的を忘れ、生き延びることだけに執着するようになった「マキリ・ゾォルケンの残骸」が『Fate/stay night』における彼である。
 さて、「骸」がそもそもなぜ「究極」を求めたのか、はっきりとした動機が語られてはいない。魔族はみなそれを求める、という説明がされているが、ゲーム内には特に究極を求めて活動しているわけではない魔族たちも多く描かれている。私たちの世界においても、様々な分野で絶対的な法則や今まで不可能と言われていたことを成し遂げようとする挑戦者、研究者などは多くいるが、そうでない人もたくさんいる。それと同じことなのだろうと私は解釈している。
 さて、ゲーム内にて「彩喚士」は「究極の色」を求めて研究をしている。その目的もプレイヤーには示されているし、今までのシリーズを遊んだ人は彼の目的に対して疑問を抱くことはないだろう。ごく自然な流れで研究者として研究に没頭している様子が描かれている。しかし、「骸」にはそれがない。彼個人の動機が一切語られない。なぜ彼は究極を求めてゲーム内における技術を得るに至ったのだろうか。
 さて、「骸」は探究者であると同時に、己を師匠という位置づけにし、気に入った相手を自分の弟子として扱おうとする。「自分も師が欲しかった」と彼は「彩喚士」に語っており、いかに師匠という存在がいることが望ましい状態かかなり力を入れて説明している。
 師匠という存在には当然弟子がいる。弟子がいるから師匠であり、師匠がいるから弟子でもあるのだが、これらの存在においてはとある要素がある。師匠とは最終的に弟子の踏み台となる存在である、ということだ。師匠は己の知識や技術を弟子に教え、弟子はそれらを自分のものとしていく。それだけでなく、それらを踏まえて独自の理論、解釈を展開し、場合によっては既存の理論の否定も視野にいれなくてはならない。そして否定されるのは師のものである場合もある。そのような可能性が師弟と呼ばれるもののはずだが、「骸」の作中の様子を見るに本来の師弟関係とは違った考えをしているように見える。
 彼はラストバトルにおいて、「弟子たちが慕ってくれている事実に対し、ふさわしい姿にならねばならない」、と言って衣装を変えている。が、彼にとって弟子に慕われる、尊敬されるということはつまり何を指すのだろうか。そもそも、彼にとって弟子とは何か。
 彼は「弟子を起動」という言葉を使っているが、自分と同じ存在とみなしていないのはこのセリフで明らかである。彼はそもそも弟子に対して人権を認めてもいないような気がする。いや、自分以外の存在を自分と同じと全くみなしていない、ということなのかもしれない。
 師弟関係とはそもそも相手の人権を認めて成り立つものである。自分の知識技術を相手に与えるのだから当然だ。普段は動かないようにしておき、有事においてだけ起動する、そんな存在をそもそも弟子と呼ぶのだろうか。そんな存在に「慕われている」「尊敬されている」と考えて、どれだけ嬉しいのだろう。彼が行っているのは人形遊びに他ならない。
 彼は弟子たちが敵に殺されても特に何の感慨もないようだ。どうでもいい存在に対して彼は弟子と呼びかけ、彼らに慕われていると考え、それにふさわしい姿に変わって見せる。それはあるいは、彼自身が己を無意識のうちにそのように見ているのではないかとすら邪推してしまう。つまり、「骸」は彼自身を一番どうでもよい存在であるとみなしているのではないか、ということだ。
 ゲーム中の彼の言動を見るに、むしろ常に自信満々で自分が一番だと考えているように見えるため、私の先ほどの説明に対して「は?」となる人が多いと思う。それはそうだろう、そうなって然るべきだ。私の考えをさらに書いていこう。
 いきなり書いてしまうと、「骸」は「彩喚士」の一つの可能性である。「子供」をこの世に生み出した「彩喚士」が、それは間違いであったのだと考えずそのまま突っ走った場合の「もしも」の可能性の一つ、という風に見える。この二人の共通点に気づいている人も多いだろう。
 「彩喚士」も「骸」も自分の技術や知識を自信満々で語るが、その際相手を見下す、相手の助力を不要と断ずるなど、自分以外の誰かを引き合いにし、それを貶める発言をすることが多い。『ナントカ三術将2』オープニングにおいて、「彩喚士」はそのような振る舞いをしていなかっただろうか? 自分に自信がある場合、いちいち他者に言及する必要がない。さらに、あえて己一人でやり切ろうとする必要もない。それは「骸」も同じはずだ。自分の技術に自信があるなら、他者に対して優位に立つような発言をいちいちする必要自体が、実はない。ただ自信をもってそこに在ればいいだけだ。このあたりのことは過去記事にも書いたかもしれない。
 あえて酷いたとえをしてみる。「弱い犬ほどよく吠える」
 「彩喚士」も「骸」も、自信満々の言動はむしろ自身のなさの裏返しの可能性がある。このあたりは「守影術士」(以下「守影」)と比べるとよくわかるのではないだろうか。彼は自分の術がいかに優れているか、いちいち声を大にして言わないし、自分が優れた術士であることをことあるごとに主張もしない。しかし、彼に術士としての自信がないかと言えばそんなことはなく、むしろ自分の守影術士としての能力に誇りを持ち、それに恥じない仕事をしている。また、『ナントカ三術将3』から登場する「占術参謀」(以下「参謀」)もまた、基本は「守影」と同じ人種だろう。「三術将」という存在に対して色々と不満があったがゆえに登場してしばらくは棘のある発言が目立つが、基本的に自分の力を劣ったものとは考えず、他者に対して不要に見下す発言も特にない。
 このあたりを考えると、「彩喚士」と「骸」は「いちいち他者を見下す、貶める発言をすることでようやく自分の価値を引き上げることができる」という風に考えられないだろうか。ちなみにこのあたりに関しては、『ナントカ三術将2』の「兄」あたりも当てはまりそうだ。守影術、および守影術士を見下す発言をしていたが、それは自分の守影術士としての自信のなさの裏返しだったかもしれない。守影術以外の何かに情熱を燃やす、あるいは自分の守影術に対して完全に開き直っていれば、あのような発言も、そもそもあの騒動事態も起こらなかっただろう。むろん「彩喚士」はそういった傾向をシリーズを経るほどに克服していっている。つまり、未来の可能性の一つであった「骸」とは出会った時点でほぼ決別できているわけである。
 はっきりとした決別は決着がつくその瞬間に、「彩喚士」が「骸」に関して、その在り方、考え方を理解したまさにその時だろう。「骸」の思考を読み、自分なりに理解してのあの発言は、やはり「彩喚士」には「骸」の可能性があったのだなと思わせるものがあると同時に、理解したうえでそれをきっぱりと否定してみせたことが、まさに「骸」という可能性からの完全な決別だったのだろうと考える。作中において「骸」に揺さぶられているのは、まだ決別しきれていない、その可能性の手招きにあるいは抗い切れていないことを表しているのかもしれない。事実、「骸」は「彩喚士」を熱心に勧誘している。熱心というよりは、必死と言った方がいいかもしれない。
 「骸」は「彩喚士」が言ったように「理解者が欲しかった」のだろう。あの弟子人形たちも、その理解者を求める言動のなれの果てだったかもしれない。あの弟子たち一人一人の人生がどのようなものだったか、何を思って弟子になったか、何を目指していたのかは一切わからない。あるいは、「骸」が一方的に弟子認定していただけで、本人は「彩喚士」のように拒否していた可能性もある。もしかしたら、拒否したからこそああなってしまった、のかもしれない。
 「骸」は優れた人物を「弟子になれ」と勧誘している、していたのだろうが、その中に「骸」よりも優秀な存在はいなかったのだろうか? おそらく、いなかったはずもないだろう、と考えている。「彩喚士」もある意味、「骸」の術をあっさり見抜いて対処してしまった手際を見ると、「骸」と同等か、それ以上の可能性もある。「骸」がどれほどの時間をかけた研究であの技術を開発したのかは分からないが、「彩喚士」は術で自分の成長を止めたりしていたわけでもない。普通に成長し老いもしていくだろう。その時間経過の中で、特定分野に限るとしてもすでに「骸」に匹敵する知識と技術を持っているというのなら、場合によっては「骸」より優秀であるといえる可能性がある。
 恐らくだが、そういった可能性を「骸」は一切認めないだろう。認めることができない、と言った方がいいかもしれない。自分より優秀な存在を認めることができるというのは、実はとても難しいことである。ちなみに「彩喚士」は「無印」の時点で自分以外の優秀な術士の存在に関して、はっきりと認めている。それでもその後の話において「他者の助力を不要と断ずる」等の傾向も残っており、そうそう至れる境地でもないことはよく分かるだろう。「骸」はそのあたりを特に考えてはいないはずだ。おそらく、「彩喚士」のように自分を見つめなおす機会は過去にすべて置いてきてしまったのだろう。彼の、自分を永く存続させる方法を使用してしまった時点で、取り返しがつかない状況になってしまったと思われる。
 その方法に関しても、複数の存在を寄せ集めて自分の命としてしまうのだが、それによって「骸」は死から遠ざかっていたはずの自分に死が迫っているという矛盾した状況に追いやられている。あらゆる命を取り込んで、自分という存在がその中で消えてしまうかもしれない状況というのは、はたから見れば自業自得と言える。その状況を脱却するため「無色の魔力」を欲していたようだが、「空間」「透明」という部分を考えると、逆に己の存在を危うくしてしまいかねない危険もはらんでいるようにも見える。そういった可能性を考慮して慎重に考えなければならない筈なのだが、そのための熟考をどこまでしているのかは不明である。しかし、「とにかく「夢幻操士」を手に入れればどうにでもなる!」と考えているように見受けられる気がするが、これは私だけかもしれない。少なくとも、作中の彼はかなり焦っていたのではないだろうか。
 「骸」は自分自身を保つことに対してはかなり力を注いでいるように見える。おそらく、何かを研究するのに時間が足りなかったのではないだろうか。だから作中の方法で自分が研究する時間を確保したのかもしれない。しかし前に書いたように、彼自身の「究極」を求める動機そのものについては一切作中では語られていない。作中の技術を得るのに一朝一夕で済むとは思えないので、それだけの情熱を注ぐ何かがあったはずではないだろうか。彼はもしかしたら、当初の自分の目的を、なぜそれだけの情熱を注ぐに至ったのかを、忘れてしまったのかもしれない。それこそ、『Fate/stay night』のマキリ・ゾォルケンのように。もともと「この世すべての悪の根絶」を目指して、永い時を生きたがゆえに生きることそのものだけが目的と化した、かつて理想を燃やしたマキリ・ゾォルケンのなれの果て、残骸と同じように。
 かつての「骸」はそれこそ「人々のため!」という「彩喚士」と同じような夢を抱いた若者だったかもしれない。もしかしたら、「彩喚士」と同じように術をうまく使えずバカにされた過去があったかもしれない。夢と情熱は永い時を経て風化し、彼という存在だった別のナニカでしか、もはやなくなってしまっていたのかもしれない。彼自身の危惧した、永い時を生きるための方法によって自分がなくなるという危機が、とっくの昔に訪れていたのかもしれない。そういう意味では、彼は既に死んでいた、のかもしれない。
 「究極」を求めて不死に近い存在となった結果として、彼が本来目指していた「究極」とは全く違うモノを得るに至ったのだとしたら、あるいは、得たという認識を持ってしまったのだとしたら、彼自身は「骸」という見た目をした空っぽのナニカでしかない。皮肉ではあるが、死んでもなんとも思う必要のない捨て駒の弟子に崇められることに対して相応しく在ろうとしたということは、そんな彼の存在そのものを描写しているかのようでもある。
 ゲーム中、彼は自分以外の存在に対して常に見下し、そしてその見下した存在の関係性を傷つけるような振る舞いを多くしている。また、誰かが自分の思い通りに動いてくれれば、と呟いていることもある。彼が今求めるのは、誰もが自分だけを認め、自分以外の存在を認めない、そんな世界なのだろう。過去に何かあったのかなかったのか、それは分からないが、「骸」はそもそも上記したように彼自身ではない可能性がある。取り込んだ多くの命、それによって自分を保てなくなる危惧を抱いている時点で、それを意識している時点で、もはやそうなる前の彼とは違う存在ではないだろうか。意識しているということは、すでに混じってしまって一人の意識人格ではなくなってしまっていることの証明ではないだろうか。「骸」はすでに彼彼女たち、という存在になっているのではないか? そうであるならば、「骸」の作中の言動は彼の見た目をした元々の彼と見てはいけないのかもしれない。しかし、究極を求める探究者、研究者であるという意識はずっと持ち続けているし、土台はやはり「骸」の本来の体と意識の持ち主のものであることは確かなのだろう。だが、永い時を経てしまったこと、人格が混じり始めている自覚をしていたことから考えて、作中の彼はもはや彼個人としてあった時の究極を求める優秀な研究者、とはまた違った存在になっているような気がする。研究者であるなら、「自分こそが究極だ!」断言してしまうこともないのではないだろうか。あるいは、ある種の究極を得たと考えたからこそ次の段階を求め「無色」に目を向けたのかもしれない。だが、現状の究極に満足できてしまう程度の研究者であったのだろうか? 彼の研究結果がどうこうではなく、研究、探求する者としての向上心という視点で見ると、やはり違うのではないか、という気がしてしまう。少なくとも「彩喚士」は自分なりの答えを出しても満足していないようだ。
 作中においては「彩喚士」と「骸」との対比がかなり力を入れて語られているようにも見受けられる。また、その類似性も同時に描写されてもいる。私は過去記事に〈「彩喚士」と「骸」は同質の存在〉と書いたことがあるが、最初に書いた通りそのあたりに気づいている人も多いだろう。それは「骸」の土台となった部分が「彩喚士」と通じる部分がある、ということかもしれない。
 『ナントカ三術将』シリーズは「彩喚士」の成長の物語であると思われるが、最終的に自分の可能性の一つであった「骸」とのやり取りが行われ、内容を理解したうえで否定するその流れにおいて、その成長物語には一つの幕が下りたといえるのだろう。
 「彩喚士」が「骸」になる未来は完全になくなっている。しかし、作中での「彩喚士」の行動を見るに、やはり可能性はあったのだと考えてしまう。
 今後どうなるのか、どう在るのかに関してはスピンオフやマンガなどを見ればある程度分かるそうだが、とりあえず思うことが一つ。
 「彩喚士」はとりあえず早く彼女つくって落ち着いたらどうかな? である。
 「守影」や「参謀」あたりは現在いるのかいないのかは知らないが、初恋くらい既に済ませているだろう、多分。しかし「彩喚士」は確実にまだっぽいし、「骸」は絶対にまだだったはずだ。彼女いたらやらんだろうあんなこと。
 要するに支えてくれる第三者である。「彩喚士」にとって「助手」は第三者というほど離れていないため危うい気もする。

 などという感じで今回は終わります、が。ちょっとしたお遊びを用意してました。
 『ナントカ三術将』の感想記事その壱、なんか色々ツッコミどころあったと思われますが、それがある意味問題文です。
【『ナントカ三術将』感想その壱に関して、問題点の指摘及び改善案を述べなさい。
 ただし、あくまでも「骸」ならどうするかを考え、「骸」的にツッコミを入れること。
 文字数制限は特にないものとする】

フリーゲーム『ナントカ三術将』感想色々 その壱 - 人生雑論ノート
 暇な方だけ脳内でテキトーになんかツッコミ入れておいてください。

 はい、お疲れ様でした。

zaturon.hatenablog.jp