人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

【ゲーム批評祭】『アイドル八犬伝』の批評を読んで思う「ゲーム飽食時代」

 こんばんは。

 現在行われております【ゲーム批評祭】『アイドル八犬伝』批評を読んで、ゲームにおける月日の流れというか、今現在のゲームの状況に関してちょっと考えてしまったので、ブログに書いてみます。

 よろしくお願いいたします。

※【ゲーム批評祭】『アイドル八犬伝』のリンク張ってます。許可ないんですが……。ダメだったら即削除します。

 また、【ゲーム批評祭】を開催しておられますJini (id:arcadia11) 様についても書かせていただいております。無論、ちゃんと削除します。削除ボタンでさっとできますから。

 

  まず、考えるきっかけとなった【ゲーム批評祭】『アイドル八犬伝』批評、はこちらです。

arcadia11.hatenablog.com

 

 私、このゲームは未プレイなのだが、だからこそ思った。

「やってりゃよかった」

 この時点でまだゲームに手を出せる歳でなかったが、数年後にゲームをしているのでやろうと思えばできたのだ。ファミコンは持っていた。

 でも、やらなかった。知らなかったし、たぶんこのゲームの存在を知っても、プレイすることはなかっただろうと思われる。

 私たちは「今やりたいゲーム」を選んですぐにプレイできる環境にいる。しかし、「やってりゃよかった」と後で後悔しないようにゲームを選ぶことなどできない

 特に今は、「ゲーム飽食時代」といっても過言ではない。色んな人が色んなゲームを作り、発表している。私は主に「Freem!」様でダウンロードしているが、他にもゲームを入手・購入できるところなどは色々とある。

 たくさんの方が「こんなゲームあるよ」と教えてくださるし、製作者様は「完成したよ!」と知らせてくださる。

 そのたびに、「やりたい!」「面白そう!」と思うのだが、とてもじゃないが手が回らない。私は他の方よりもどうしても要領が悪い。

 やりたいけど全部などとてもできない。それなら後からやればいいだろうと考えるかもしれないが、そうしている間にも無限にゲームは増えていく。

 もはやゲームはあふれかえっている。そしてこれからもどんどん増えていくことになる。以前、それこそ『アイドル八犬伝』の時から比べれば、現代はまさに「ゲーム飽食時代」。少なくとも、今ほどゲームであふれかえって、毎日毎日一気にゲームが発表されて増えていくようなことはなかっただろう。

 『ドラコンクエストⅢ』の行列は、今でも伝説として語られている。今はあのような、すさまじすぎる行列に突入する必要もなく気軽に安全に快適にゲームを入手できる。作り手側にとっても制作のハードルがどんどん下がっているのだろう。入手も製作も容易で、需要と供給は膨れ上がる一方だと思う。昔のように需要側と供給側が分かりやすく分かれてもおらず、それこそ『ドラゴンクエスト』のようにたくさんの人がたった一つのために一つの方向に突き進むことがほぼなくなっているような気もする。

 【ゲーム批評祭】『アイドル八犬伝』の批評を読むと、

「ああ、昔のファミコンのゲームって、あんなんだったなあ」

 などと考えてしまい、現状とどうしても比べてしまう。

 四方八方から際限なく押し寄せてくる情報。自分の知らないゲームに関する情報がこれでもかと押し寄せてきて、自分の欲望を否応なく刺激してくる。

 でも、自分自身の生活のためにそれだけをしているわけにはいかない。そもそも、お金も時間も好きなだけ使える人であっても、もはやすべてのゲームを心行くまで楽しむことなど不可能な状況にある。

 昔からそうだったと言われればそれまでだが、ふと周りを見渡せば、あまりにも自分がファミコンで遊んでいた時から変わっていて、混乱する。

 際限なく膨れ上がるゲームの消費の状況は、自分でゲームをするのではなく他人のゲームプレイを眺める「ゲーム実況」という文化も生み出した。

 昔、友人とゲームをプレイしているとき、自分がやらないこともあったけれど、それでもゲームは視聴するものではなかった。しかし今は「ゲーム実況」により最初から最後までプレイしない状況でゲームを楽しむというスタイルが定着した。

 ファミコンとはファミリーコンピューターの略であり、もともとは家族でワイワイ楽しむことを想定していたのだろう。でも、そうはならなかったような気がする。しかし「ゲーム実況」は、もしかしたら昔ファミコンが目指していた「みんなでワイワイゲームを楽しむ」を、違った方向から再構築する形になったのかもしれない。

 ゲームが膨れ上がったからこそあまりにもたくさんありすぎるゲームに押しつぶされるのではないかと、「ゲームをやりたいけどできない」という、一見バカバカしく感じる状況にストレスすら感じてつぶれそうだと感じてしまう。その欲望を埋めるという意味でも、「ゲーム実況」という文化は生まれ、消費されているのかもしれない。

 ゲームというのは一つの世界である。どのようなジャンルであろうとも、それは「人間」という要素がイヤというほど詰め込まれ生み出された世界なのだ。そして、その世界が今どれほどあるというのか。

 ゲームがこんなにたくさんあるのは天国か? 場合によっては無限地獄かもしれない。自分の時間を、ゲームという世界にささげることで消費できてしまう。それはプレイヤーだけではない。作り手もだ。ゲームではなく他にその時間をささげておけば、もしかしたらもっと生活が豊かになったかもしれないし、逆にゲームに関わったから豊かになったかもしれない。

 どうあがいても結論なんて出ないのだが、それでも分かり切っていることは、私自身はゲームと自分を切り離すことなどできはしないだろうということだ。ゲームは面白いし、これからもその作者様の世界を堪能したいという欲望がある。上記したが、ゲームとは〈「人間」という要素がイヤというほど詰め込まれ生み出された世界〉なのだ。すなわち「むき出しの人間性そのもの」だと私は考えている。そんな楽しいもの、関わらずにいるのは不可能だ。

 ゲーム制作にあたって、少人数、あるいはたった一人で製作できるようになったからこそ、その方向性に磨きがかかっていったような気もする。「企業が商売として売り出すのは無理そうだ」と考えてしまうようなゲームもよく見かける。まさに「ゲーム飽食」時代の恩恵ともいえるのかもしれない。

 しかし、「飽食」とはさほどいいものでもないイメージもあろう。たくさんの食べ物があった満ちたりた状態、本当に? 他にもおいしいものがあることを私たちは知っている、あるいは知ることができる。いくら検索できても、実際に食べに出かけても、すべてを網羅などできない。「あれもこれも」と食べ歩き続けても、まだまだ他にある。そういう状態だからこそ、さらに次々と新たな食べ物が生み出され、それに触発されてさらに食べ物が生まれ続ける。一方で食べきれないで捨てられる食べ物も出てくる。また、他方では食べ物が満足にない状況も存在する。「ゲーム飽食時代」とはまさにそれだ。ゲームがその状態となる。そしてまたその状況も、非常に「人間的」である。

 食べるとはとても直接的でわかりやすい欲望である。だが、ゲームはそうではなかったはずだ。そのゲームという存在が、今やここまで来てみせた。

 【ゲーム批評祭】を現在開催していらっしゃる「ゲーマー日日新聞」のJini (id:arcadia11) 様は、「ゲームは芸術だ」とおっしゃっていた。同意する。

 ゲームは間違いなく芸術だ。私は芸術とは何かを勉強などしたこともないどころか、根本的に浅学の身でしかないが、「むき出しの人間性そのもの」が芸術の一要素だと考えている。

 もちろん、私がいろいろと考えるきっかけになった『アイドル八犬伝』も、素晴らしい芸術作品に違いない。未プレイが本当に悔やまれる。

 「ゲームの飽食」によって苦しくなっても、結局私はゲームから根本的には離れられないし、でもいかなる芸術作品も、「見ない・近づかない・考えない」でいる自由はあるのだから、「ちょっと疲れた」という時は遠慮なく休んでいいだろう。ゲームは人を疲弊させるために作られるのではないのだから。本末転倒なことをしてはいけないのだろう。作り手に対してもきっと失礼に違いない。

 これは、ただの言い訳かもしれないけど。自分が潰れてしまえばそれまでである。

 そして、こんなことで悩んで潰れそうになるのは私だけだよこのポンコツ、というツッコミで終わることにする。

 

 お疲れ様でした。

 色々と失礼いたしました。

 お読みいただいた方、ありがとうございます。