人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

フリーゲーム『ナントカ三術将』感想色々 その弐

 こんばんは。

 今回もまた「三條」様制作、フリーゲーム『ナントカ三術将』について、感想など書かせていただきたいと思います。

 よろしくお願いいたします。

※ネタバレ配慮は一切ございません。プレイ後にお読みください。

 

  そんなわけで、『ナントカ三術将』シリーズの感想2回目ですが、この時点でスピンオフ作品『占択◇スクランブル』は未プレイとなっております。

 『ナントカ三術将』シリーズの感想がある程度書き終わったらプレイさせていただき、その上で改めて感想を書かせていただこうという姑息な手段をとっております。

 そのため、『占択◇スクランブル』関連の内容は一切存じません。ご了承ください。

 では、始めさせていただきます。よろしくお願いいたします。

 

 というわけで、今回書かせていただくのは、『ナントカ三術将』シリーズ主人公について。「彩喚士」と呼ばせていただくことにする。

 まず、私は過去Twitterにて、彼に対し少々批判的な内容のツイートをしている。

 一作目をプレイし終わった時、結構モヤモヤしてしまったポイントである。シリーズを重ねていくうちにそのモヤモヤも晴れていくことになるのだが、なかったことにしていいことでもない、とは思う。

 本人もこのあたりに関しては後悔しているらしく、過去巻き込んでしまった相手に対して罪悪感を隠しきれていない。

 私ははっきり言ってかなり性格が悪いので、二作目のミッションにて、

「……こ、この村によく足を運べるな」

 などと考えたりもしていたのだが、上記の場面を見るに彼の中にもしっかり刻み込まれている出来事であり、むしろ、自分の罪悪感を理由に逃げてはいけない、という考えがあったのだろうな、と今は思っている。

 また、彼に対して批判的になってしまう理由はまだあるのだが、それに関しても過去にツイートしている。

 このツイートは、「彩喚士」によって生み出された「子供」の方に感情移入してしまったことからしたものなのだが、このあたりに関しても「親」たる「彩喚士」に対しては少々思うことがあることがお分かりいただけると思う。

 さて、少々難しいが、とりあえず順番に書いていこうと思う。

 

 まず、とある「村」で彼が行ったことだが、これに対してはいちいち説明不要と思われる。問題は、彼が「守りたい」と考えていた「町」に関してである。

 結果的に「村」で行ったことによって、守るべき「町」の人々が不安で普通の生活もままならない有様になっている。

 彼はもともと自分が城へ行き、「子供」を「町」に残すことを考えていた。その場合、「村」に関する町人たちの相談などには「子供」があたることになる可能性が高い。ゲーム中町人は「村」の住人が丸ごと消えてしまったことに対して、「自分たちもそうなってしまう!」という不安を常に抱きながら、城へ行った「彩喚士」を頼りにしていた。なら当然、「町」に「彩喚士」がいる場合は全面的に頼るだろう。しかし、この事件を解決するわけには当然いかない。「町」に残っているのは「村」を犠牲にして生まれた「子供」であり、その解決は「子供」の消滅を意味する。

  ならばどうなるのか。「子供」は「調査中」「原因不明」などと言葉でごまかし続ける必要が出てくる。しかし、あまりにも進捗がなければ、町人たちも怪しむはずだ。そうなると町人たち自ら調査に乗り出すかもしれないし、他の町、あるいは何らかの役場などに調査を依頼しに行くかもしれない。「村」のことと「子供」が関係していることは、しかるべき調査をすればすぐに明らかになるのではないだろうか。

 その場合、「子供」はどうするのか、どうすればいいのか。ゲーム中「子供」を「町」に残そうとしたのは、「彩喚士」にとって「町」が愛しいから、という説明がされていた。この場合「子供」に対し、「彩喚士」はどのように行動することを望むのか。

 まさかとは思うが、「町のために死ね」とでも言うつもりなのだろうか?

 そしてその後、城で働いている彼は「子供」に関してどのように言うつもりなのか、「村」の事件に関してどう動くことになるのだろうか。

 

 そもそも考えてほしい。「彩喚士」は「町が愛しい」らしいのだが、すぐ隣の村の住人がすべていなくなったら、当然「じぶんたちもそうなってしまう!」と考えるし、不安になる。最悪「町」を捨てる選択も出てくるかもしれない。「彩喚士」の「町が愛しい」から、という説明がこの時点で矛盾する。隣村がとてつもないことになって「町」の住人たちが平然と暮らしていけると考えていたとでもいうのだろうか?

 そもそも「無印」の時点で「なぜおまえが「町」に残らなかったのか」という問いかけがあったが、それに対する答えはない。「彩喚士」が答える前に別の者が先に、問いとは違う内容の言葉を言ったことでこの問いそのものが消されてしまっている。

 結局彼はなぜ「町」に残らなかったのか。これに関しては、私は以下のように考えている。

 彼は自分自身が考えているほど町を愛しておらず、憎悪の感情すら抱いている可能性がある。いや、愛しているのは事実だが、同時に憎んでもいる、と言った方がいいのかもしれない。

 『ナントカ三術将3』において、かれはもともと術がうまく扱えず、バカにされていたと話す。必死に勉学に励み認められていったとのことだが、「相手を認める」と「相手に対する行動を詫びる」はイコールではない。「彩喚士」は「町」で認められ必要とされる一方で、ロクに術も発動できないからと否定された過去も持つ。そして、認められ必要とされたからと言って、否定された過去は消えない。つまり、彼は結局否定されたままである。

 

 「彩喚士」は「優しい」「お人よし」といった評価を受けることが多いかもしれないが、同時に自分の目的のためなら「村」一つ消してしまえるだけの残虐性も持っている。さらにゲーム中のセリフを読むなら、「分解」は「子供」を生み出した時点で使用できない状態だったらしい。いざという時に元に戻す方法について、彼はこの時点で持っていなかったのである。彼にとって「村」一つ分の命はあくまでも自分の目的のためだけの道具に過ぎなかったのだ。後々悔やんではいるものの、結局彼がやったことは大量虐殺である。未遂に終わったのは結果論にすぎない。そういう意味では、『ナントカ三術将3』のラスボスと「彩喚士」は全く同質の存在である。

 

 そして、「彩喚士」にとっては「自分と同じ存在」として生み出した「子供」も道具でしかなかったということになる。

 道具に「中身」など必要はない。「彩喚士」が「子供」に望んだことは結局、自分にとって都合のいい道具たることである。心があれば自分と同じように故郷を愛してくれるはず、という思いがあったらしいのだが、「命」を道具として消費した結果生まれた都合のいい「道具」に、彼は「愛しい故郷」を守らせようとしたのである。自分自身は城へ行ってその特権を享受する前提で。

 

 『ナントカ三術将2』に関しても、祭りを盛り上げるために「魔晶石」を消費し過ぎて、有事の際に術が使えない事態に陥っている。「町のため」と彼は言っているし、実際ゲーム中にも祭りをいかに盛り上げるかで彼なりに奔走しているので、その言葉自体がウソというわけではないのだろう。しかし、最終的に祭りは台無しにされている。この時にも悔やんではいるが、捻くれた見方をしてしまうと「いざという時に何もできないように」自ら行動しているような気もしてきてしまう。彼自身そのことを認識しているとは思えないが。また、これはあくまでも私個人の思考がゆがんでいる、というのが最終的な結論にしかならないとは思う。しかし、「故郷を愛しつつも憎んでいる」と私が考えてしまっているため、どうしてもそういう思考になってもしまうのである。

 

 そもそも「村」に「子供」を置いておこうとした動機に関して、「自分が「町」にいなければならない」と考えたということらしいが、これに関しては町人たちを「彩喚士」がバカにしているようにも見受けられる。彼は町人たちが「有能な彩喚士たる自分がいなければ何もできない」と考えている、と解釈できてしまうのだ。少なくとも、「自分がいなくても、この「町」の人たちなら大丈夫だ!」という信頼はないはずである。信頼しているならそもそも「子供」を残すという発想にもならない。何の心配もなくそのまま城へ向かうだろう。

 

 私の考えとしては、「彩喚士」は「町」を過去の記憶から憎んでおり、その経験から「村」一つ分の命の消費に関して躊躇しせず、自分以外の存在を「道具」とみなし扱う残虐性と独善性を有している。同時に「町」に対する愛情も確かにあり、はたから見た場合かみ合わない行動をとることになる。

 自分が過去に経験したことは良くも悪くも血肉になるので、「彩喚士」が過去に「バカにされた」という経験は、相当悲惨なものだったのではないか、と考えている。このゲームの世界観において、「術をまともに使えない」というのははっきり言って劣等生を通り越して、欠陥品扱いではないだろうか。彼が常に自信過剰なポーズをするのは過去の経験から来る自己否定の感情が強いからではないかと考えている。「自分は優れている!」と常に自分に言い聞かせておかないと、自力で立つことが困難な状況なのではないだろうか。

 

 『ナントカ三術将2.5』において、「彩喚士」は「自分は仲間を信用していなかったのでは?」と考える場面があるが、これは象徴的な場面であると考える。

 「彩喚士」は過去の経験から自分に自信を持てず、他者を信用することもできない。だからこそ「自分が何とかしなくては!」と意気込むことになる。しかし本質的に自分も他者も信用できていないため、「間違えるわけにはいかない!」とかえって自らを追い込んでしまう。結果的に仲間たちは自らの力で窮地を脱しており、彼が気負う必要などどこにもなく、自分の選択を悔いることになる。

 『ナントカ三術将3』においても、敵の術中にはまってしまうが、これも自己肯定感の低さと他者に対する信頼感のなさによる。彼は的確に自分の思考を揺さぶる相手の言葉に抗うことができない。それまでの仲間たちの言葉を思い出しながら、彼は必死に仲間を信用しようとするが、できない。

 

 「彩喚士」にとって一番信用できるのは自らの操る「彩喚術」、およびそれから生み出される意志のない人形たちである。さらに言うなら、技術そのものかもしれない。

 技術そのものは彼をバカにすることもない。また彼が認められたのは優れた技術による。故に、彼は自分も自分以外の存在も信用しない代わりに、技術に圧倒的な信頼を置いている。

 例外は「助手」かもしれないが、そもそも「助手」も技術の産物である。無論、「彩喚士」は「助手」を自分と同等の存在とみなし、その成長を喜び、問題点も叱る。まさに「わが子を慈しむように」常に接している。

 結局これは「彩喚士」自身が自らの技術によって生み出した存在だからなのかもしれない。これは「子供」も同じはずだが、「子供」を生み出した時点で彼は生み出す存在に自分と同じ価値を見出していないということだろう。

 個人的に「子供」と「助手」の、同じ存在のはずなのに全く違う扱いであることにモヤモヤするのである。ぶっちゃけると、

「お前「助手」にそこまで心を砕けるなら「子供」にもしてやれよ」

 という気持ちになるのである。

 

 そんな彼がそれまでの自分を大きく超えていく物語が『ナントカ三術将』シリーズであり、それまでの自分との決別を描いたのが『ナントカ三術将3』、そしてそのラストバトルである。

 という風に私は考えている。

 

 というところで、今回は終わりにさせていただきます~。

 お疲れ様でした。

 

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