人生雑論ノート

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フリーゲーム『ママにあいたい』感想色々 その肆

 こんばんは。

 

 「野乃ノ 之」様制作フリーゲーム『ママにあいたい』の感想、四つ目となります。

 よろしくお願いします。

 私が書いたため、暗い、痛い、と思うことも多いと思われます。

 また、生々しい表現を多用すると思われます。

 お読みいただく場合、ご了承願います。

※プレイしてからお読みください。ネタバレ配慮はしておりません。

 

 『ママにあいたい』の感想リンク集です。こちらからほかの感想に行けます。

zaturon.hatenablog.jp

 それでは、始めさせていただきます。

 

 今回で『ママにあいたい』の感想の四つ目となる。今回書かせていただくのは「四番目」について。

 まず、私の「四番目」に対する意見はかなり厳しめである。

 バグった画面から見ることができる最終エンディングにて、「ママ」を殺したのは「四番目」だと私は思っている。

 これに関する意見は様々あり、私の意見はその中の一つでしかない。あくまでも私個人はこう思うというだけのことである。

 あのシーンにて片目だけが一瞬赤くなったこと、「「ママ」を殺したい」と考えていそうなのは、最終的に「四番目」だけになっているのではないのかという考えから、あのシーンの彼は「四番目」だと考えた。

 ここから先の内容は「最終エンディングにて「ママ」を殺したのは「四番目」である」という個人的な考えをもとに書いている。

 

 さて。では、私が「厳しい」と考えることについて、いきなり書かせていただこう。

 彼は「ヒトゴロシ」である。

 「ママ」を殺した。だけではない。作中にて自分の兄弟たちを次々と手にかけている。

 まず「一番目」「二番目」「三番目」はカンシとしての力で殺している。彼らはすでに死んでいるが、それでも作中の描写を見る限り、「殺人」と解釈してよいだろう。

 「一番目」「二番目」に関しては殺すタイミングが選択肢によって入れ替わるが、たくさんのカンシに追われている時の場合、「目玉」が協力したままならあのまま殺していただろう。また、その際の彼らの説得で納得しているとも思えないので、落ちた後相手だけを沈めて自分一人這い上がったかもしれない。

 「六番目」も殺した。彼の体を奪い、彼を殺した。

 エンディング「刺客」にて、倒れこむ「六番目」を助けようとしている手があるが、あれは体を奪われた「五番目」だと私は解釈している。あくまでも私個人の考えではあるが、体を奪われた受精卵は自分の体から魂を追い出され、そのまま死ぬのではないか。

 「六番目」の人生を完全に奪った。それに対して罪悪感はないようである。

 作中のセリフを聞いても、奪われる側の意志に頓着している様子はない。

 ともあれ、彼は「ママ」を殺すまでにかなりの「殺人」を犯しているのである。

 そして、作中最後の「殺人」の対象が「ママ」である。

 彼は、彼が愛してやまない「ママ」と同じく、複数の命を奪った「ヒトゴロシ」だ。

 

 私は「愛してやまない「ママ」」と書いたが、納得しない人も多いのではないだろうか。

 「四番目」は「ママ」を恨んでいるのであって、愛しているわけではないだろう、と。

 私の考えとしては、もともと深く愛していたからこそ、恨みや憎しみも深いのだと考えている。

 

 彼はとてもとても、深く「ママ」を愛していたのだろう。それこそ、「ママ」から生まれ、最終エンディングまで育つほどに「ママの中」とは全く別の世界、「箱庭」ではない広い世界で生活し、様々な考えや規範、世の常識などを吸収したうえでも、あの最終エンディングのように冷たい笑顔を浮かべながら包丁で刺し殺すことができるほどに。

 あのような姿になる年月を生きて、それでも彼は「愛するママ」を追い求め続けたのだ。

 彼の「愛するママ」、つまり彼が愛し愛されたかった、そして決してそうなることがなかった「理想のママ」を得るために。そうではない「理想とは違うママ」、「受け入れたくない現実のママ」を殺すことによって。

 受け入れたくない現実を拒否するための殺人。これは「四番目」にも「ママ」にも、さらには「二番目」にも共通する行動原理である。彼らは何かの間違いによって、あるいは勘違いによって「殺人」を犯した、犯そうとしたわけではない。それぞれが己の当時の価値観に基づき、確固たる信念に基づいて行動しているのだ。

 それが一般的に受け入れられるか否かは問題でなく、はたから見てバカバカしい、くだらない、理解不能なものであったとしても、当時の彼らなりに、自身の環境や今後を考えたうえで行っている。

 「ママ」は、「あの人」に出会ったことによって今までの自分の行為を見つめ返す余裕が生まれ、後悔することになった。「二番目」もまた、「殺してあげることにした」自分の決定を作中で後悔している。ともに「ごめんなさい」と口にし、それまでの行動を改めようと努力してもいる。

 「四番目」はどうだろうか? 彼は作中において後悔する様子は見られないし、「ママ」を殺した際も笑みを浮かべている。

 しかし、心からの晴れやかな笑顔ではない。当然だろう。「ママ」を殺したところで彼の得たいものなど得られるはずもない。彼は生きていくうえで必ず見聞きする意見その他すら無視して、自分の中の幻だけを見続けたのだ。現実をひたすらに否定し、目の前のことすら見えず、その先を見ようとする意識すらない状態である。心の底からの晴れやかな笑顔など、無理な話だろう。

 彼は常に自分の中に閉じこもり、それ以外を見ようとしなかった。だから「ママ」を殺したし、その際のあの顔だったのだろう。

 それはある意味、彼が彼である間、「ママ」がずっと彼の中に存在し続けることになった、ということにもなるかもしれない。自分に対して酷いことをした「悪いママ」を、自分自身の手で殺した。その満足感は容易に語れるものではないかもしれない。

 その事実によって、彼は永遠に「理想的なママ」を得ることに成功した、と考えてもいい。自分に悪いことをした「悪いママ」を自分で殺した。つまり自分が「悪いママ」を正したのだ。現実の「悪いママ」は消え、自分の中の「理想のママ」は「現実のママ」に邪魔されることがなくなったのである。

 己の中にある理想はあくまでも理想でしかない。現実はそうではない。なら現実を消せばいい。そうすれば理想だけになる。それだけの話だ。

 

 しかし現実において、彼の行為は間違いなく「殺人」である。法は彼を裁くし、「ママ」と結婚した、あるいはする予定だったあろう「あの人」は、自分の愛する女性をその息子が殺した、という現実を投げつけられることになる。

 「あの人」が「ママ」の過去をどこまで知っているかは分からない。とある考察では、「「ママ」は過去の罪で刑務所に入っていて、出てきたところを殺されたのではないか」というモノがあったが、なるほど素晴らしい意見である。この場合、「あの人」は確実に「ママ」の罪を知っているだろう。

 その上で、息子がかつての「ママ」の罪に言及し、それによって憎み殺した、といわれた際、「あの人」は何を思うだろうか。また、その「四番目」の発言は裁判などではどこまで受け入れられるだろうか。

 確実に言えることは、今後彼は「ヒトゴロシ」として扱われるということである。

 その際、彼はそれを受け入れるのだろうか? それとも否定するのだろうか?

 「ママ」と同じ「ヒトゴロシ」だといわれた際、どのように反応するだろうか?

 無意識に「ママ」と同じであることを喜ぶか、自分が殺した「悪いママ」と同じであることを否定するか。

 

 「「ママ」が刑務所に入っていた」という考察をもとに考えると、「四番目」はあの年になるまでほとんど「現実のママ」と接したことがないことになる。

 彼の中の「理想のママ」だけが膨れ上がり、それに歯止めをかけるモノなど何も存在しない。

 「ママ」が子育ての際に四苦八苦したり、「あの人」相手に何か話しているところを見ることもなかったのだということになる。つまり、現実を現実として見るようになるための期間がないまま、「理想のママ」だけを自分の中で見続けることになるということだ。

 それでも、彼は「現実のママ」に接する機会がなくても、考える機会はいくらでもあった。それこそマンガもゲームも小説もある。ニュースを見ることもあるだろう。他いくらでも何らかの情報を得る機会はあったはずだ。彼は生きていく中、それに目を向けることはなかったのだろうか?

 「あの人」から、「ママ」の話を聞くことはどの程度あったのだろうか。

 

 また、彼は結局、「ママ」を殺して自分の恨みを晴らした後、どうするつもりなのだろうか?

 「ママ」を殺したところで彼自身の人生は終わりはしないのだ。これからも続いていく。そしてその人生において、「ヒトゴロシ」というレッテルは彼に常に付きまとうようになる。彼自身だけでなく、「あの人」も「愛する女性をその息子に殺された男」などと言われることになるだろう。

 「ママ」の中にいるとき、彼は体を奪い取る対象が「生まれた瞬間死ぬことが確定している五番目」でもいい、と言っている。

 無論、生まれた瞬間自分は死ぬのだから誰かを殺せるはずがない。彼が本当に「ママ」を殺したいと考えているなら、「六番目」の体を奪うことだけを狙うべきだろう。

 結局のところ、彼は先のことも、何も考えてはいなかったのではないだろうか。「ママ」を殺したい、と言ってはいたが、そのための確実な策をとろうとせず、失敗確実な方法でよいのだと言い放っている。

 彼にとって本当に大事なのは「ママ」を恨んでいるという事実であり、実行する必要が実はないのではないだろうか。エンディング「刺客」では「五番目」の体を奪い生まれようとしているが、結局「ママ」を殺すことなどできないのだ。

 「ママ」を恨んでいる、憎い、殺したい。こういった感情自体が大事なのだろう。しかし、その感情を抱き続ければ、当然チャンスが来たら殺すことになる。

 そして、そのチャンスは来てしまった。その感情を大事に抱き続けたために、彼は結局「ヒトゴロシ」となってしまったのだ。

 彼にとって憎むことこそが愛情表現だったのだと私は考えている。愛しているという感情と、バラバラにされて殺された事実を彼の中でうまくまとめるのに一番いい状態が、憎むことなのだ。強い憎しみを抱くことで、その対象を心の中で思い続けることに対して整合性が生まれる。バラバラにされた事実が単純に愛している、愛してほしいと思うことを妨げるが、憎むのなら話は別だ。存分にその相手のことを考えていられる。

 彼は結局のところ、殺した後どうしようなどということは考えていないし、その必要もなかった。「憎い、殺したい」と言い続けることができさえすればよかったのだ。

 しかし、兄弟たちは憎むことをやめてしまった。自分と同じ愛情表現をしていたはずの彼らが、目の前からいなくなった。

 これは、「四番目」にとってはヒドイ裏切りだったに違いない。

「あんたの憎しみはその程度だったんだ」

 「四番目」は「一番目」にこういった。つまり、

「あんたの「ママ」に対する愛情はその程度だったんだ」

 ということである。だから一気に殺しに来たのだろう。

 

 「四番目」は「ママ」に対する愛情があるからこそ憎んでいたし、彼の中の「理想のママ」はそうすることによってどんどん膨らんでいった。自分の中にある「理想のママ」だけを見続け、「現実のママ」に目を向けることなく、ただ自分の愛情だけを「ママ」にぶつけたのだろう。

 彼の人生には「ママ」しかいなかったのだ。これから先、「ママ」以外の大事な誰かと出会った時、彼は「ママ殺し」によってその誰かに近づくことすら困難になるかもしれない。

 「ママ」以外の大事な誰かができたとたん、彼の中の「ママ殺し」の正当性が一切なくなる。いや、「兄弟殺し」の正当性だって、彼の中で整合性を保っていたものが一切なくなるのだ。その瞬間、彼は自分が殺してきた命のすべてを背負うことになる。

 その時に、「ママ」のように支えてくれる誰かいるかいないかでかなり変わってくるだろうが、彼はその「支えてくれる誰か」を受け入れることができるだろうか? また、自分が「大事だ」と思った誰かに対して、自分が今まで意識していなかったことに対して意識せざるを得ない状況をつくる原因となった誰かに対して、真正面から接することができるだろうか?

 イヤそもそも、彼は「ママ」を殺した後で、生きていこうとすら思わないかもしれない。彼の心の大部分を占めていた「ママ」が死んだのなら、彼は自分が生きている意味も見いだせなくなるかもしれない。

 「四番目」は自分自身の命を、最初から一番ないがしろにしているように思える。

 

 「四番目」は「ママ」に「殺して正解だった」といわれた唯一の子供である。

 「三番目」曰く、「血が濃い」とのことだが、この言葉から連想されるのは「近親相姦」である。

 私が「ママ」が家族から虐待されていたのでは、と考える根拠がこれである。他の根拠については『ママにあいたい』感想の別の記事に書いてある。

 「ママ」は殴り書きの書置きをして家を出て、何とかお金を稼ごうとしていたようだ。そうしている時に、家族に見つかったのだろう。そして、父親なのか兄弟なのかは分からないが、「強姦」されてしまったのではないだろうか。

 個人的には父親ではないかと考えている。もしかしたら、家を出る前から父親から性的虐待を受けていたのかもしれない。その時点では実際の行為には至っていなかったのだろう。そして見つかって連れ戻されたか否かはともかく、「四番目」を身ごもる結果になってしまったようだ。

 「ママ」が「四番目」を「気持ち悪い」「殺して正解」と言っていたのは、「近親相姦」の結果できた子供だからではないだろうか。

 その後、その家族からは一応逃れることはできたのだろうと解釈している。客として家族が来た可能性もあるが、「四番目」に関する回想は一切ないので判断しようもない。どのみち、自分の家族だと分かった時点で手を出さないようにするのが一般的だとは思うので、やはり「ママ」に対してそういう目を家族が向けていた、というのは事実ではないだろうか。

 つまり、「四番目」はあらゆる視点から存在そのものが忌避される存在なのである。「三番目」も彼についてはあまり語らなかったようだが、「近親相姦」によって生まれた彼を忌避していた、タブー視していたからではないだろうか。

 他、見た目もどうしても他の兄弟と比べると違う。

 「ママ」からは「殺して正解」といわれ、姉からはあからさまにタブーとして扱われ、見た目にもコンプレックスを抱かざるを得ない。

 「四番目」は「理想のママ」への愛情、つまり「現実のママ」への憎悪と殺意に逃げるほかなかったのかもしれない。

 だからこそ、「ママ」を殺した彼にはもう、何もなくなってしまう可能性がある。

 「ママ」を殺した後、彼はすぐさま自殺しているかもしれない。

 

 というところで、今回は終わります。

 お疲れ様でした。

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