人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

フリーゲーム『ママにあいたい』感想色々 その壱

 こんにちは。

 フリーゲーム、「野乃ノ 之」様制作『ママにあいたい』について、いろいろ思ったこと考えたこと、書いていきたいと思います。

 私が書いたため、暗い、痛い、と思うことも多いと思われます。

 また、生々しい表現を多用すると思われます。

 お読みいただく場合、ご了承願います。

※プレイしてからお読みください。ネタバレ配慮はしておりません。

※年齢制限は設けていませんがグロテスク表現がありますのでプレイにはご注意くだい(作者様のHPの注意書き)

 

 始める前に。

 読んでいて苦しさやしんどさを感じた場合、すぐに読むのをやめてください。

 ここに書いてあることは私個人の考えです。ただそれだけです。

 このゲームの内容はとても素晴らしいです。気に障ることが書いてあった場合、それは私に責任があります。

 私はこの作品がとても好きです。

 

 では、始めさせていただきます。

 

 正直、私にはかなり荷が重いテーマの作品。

 一言で表すなら、「喪失の物語」。

 登場するすべての人物が、何らかの「喪失」を経験している。

 ではまず、「一番目」について書かせていただく。

 

 「一番目」は文字通り、「ママ」の一番最初の子供である。年齢は6才とのことだが、これは「箱庭で意識を持った時」からなのか、「箱庭から出た時」からなのか、私には判断がつかなかった。

 ともあれ、「一番目」は6歳である。

 私は「ママ」が「一番目」を孕んだのは中学生の時ではないかと考えている。14、5歳の時くらい、である。

 これの根拠は「二番目」を孕んだ時の説明であるが、これに関してはまたの機会とさせていただく。

 この時、「ママ」は「彼」という恋人がいたらしい。しかし、「一番目」の父親は「彼の兄」である。

 説明では、「無理矢理」であったと書かれている。むろん、恋人はあくまでも「彼」であり、そのことから考えても兄という近しい人であるからと言って、合意の上ではありえない。

 「ママ」いわく、「彼の兄」は優しい人だった、らしい。真意を知るまではそうだった、とのことである。

 このあたりに違和感はない。「彼」という恋人がいるにもかかわらず、「無理矢理」性交をした。つまり、「強姦」である。

 優しい人だと思っていたが、そうではなかった。「強姦」してきた人物を、やさしい人だと思う人はまずいないだろう。

 

 さて、ゲームをしていて、「ママ」に対して嫌悪感をつのらせた人はどの程度いらっしゃるだろうか。

 「一番目」を孕んだ時のことは、とあるタイミングである程度知ることができる。

 この時注意しなければならないことがある。これはあくまでも「ママ」が考えたことの一部に過ぎないこと。そして、「主観」であって「客観」ではないということである。

 まず、「彼の兄」に関して、プレイヤーはあまり知ることができない。また世界観の関係上、「ママ」は否応なしにプレイヤーやキャラクターにとって前面に出てくることになり、「ママ」以外の要素を意識しにくくなっている。

 「タネ」の存在から推測することは容易だが、そこから先に意識はかえって進まない。キャラクターたちはあくまでも「ママ」に意識を向けており、一度だけ「パパ」という言葉が出てくるが、それっきりである。

 とことん「ママ」以外の要素を抑えた世界観とストーリーであり、合間にさしはさまれるエピソードは妙に簡素である。子どもたちに関することは饒舌に語られるが、相手に関してはほぼ触れられない。その後の展開が衝撃的に感じられるものが多く、そちらに意識が向くのである。

 

 ゆえに、相手側の行動や心理について、プレイヤーは想像するほかない。いや、想像することすらしない場合も多いだろう。あくまでも「ママ」がこの世界を構成する主要素である。ストーリーにおいては、その人間性は表現されようがないのだ。

 しかし、このゲームのテーマにおいて、「ママの相手」は絶対に無視できない存在である。物語が始まらないのだ。

 

 というわけで、完全に想像で書いてみよう。

 「彼の兄」が、「ママ」に対して恋愛感情を持っていた場合である。

 「ママ」はあくまでも出会った時点で弟の彼女という立ち位置である。その時点で恋愛感情は持っていないかもしれないし、一目惚れしたかもしれない。

 しかし彼女は彼のそんな内面についてなど知りようもない。彼女にとって彼はあくまでも「彼」の兄という立場である。

 彼女は自分の恋人について教えてほしいと無邪気に尋ねてくる。その事実こそが、彼女は自分を愛していないという決定的な証拠であり、自分の恋は成就しないという残酷な事実をたたきつけてくるわけである。

 それでも彼女が自分を頼ってくるのは、彼女が愛する自分の弟がいるからこそであり、拒否することができない。それを拒否すれば、自分は彼女から必要とされなくなるという恐怖や、愛するからこそ求められることを教えたいという心で引き裂かれる、ということになる。

 人間心理として、「愛するからこそ憎い」というものがある。この状態が続けば、愛するからこそ彼女に対して憎しみが募っていく可能性はある。

 決して自分の恋人にはなってくれない。自分に対してとてつもなく残酷なことをしている自覚もない。そのくせ、自分に会いに来る。

 そしてこのような局面において、その愛憎を昇華させることができる、と思ってしまう行為がある。

 すなわち、「一番目」を孕むことになる「強姦」である。

 実際にこの行為によってこじれた恋愛感情、己が内心をかきむしる愛憎を昇華させることは不可能ではあるのだが、ある程度の心の平穏を取り戻すことは可能であろう。というよりは、「取り戻すことができた」と考えるほかないため、そう思い込むといった方が正しいかもしれない。

「優しくしてやったのなんて、このためだよ」

 例えばこういった言葉を相手に投げかけることによって、自分自身が実際にそうであったと思い込むのである。それによって自分の心を守るのだ。

 この際、自身の防衛に意識を向け、その手段として相手に対して憎しみを抱いているため、相手に対する気遣いなど不可能である。

 この行為には相手を自分のモノにした、という満足感や、相手の意に反して押さえつける暴力的行為、そして相手を否定する意思表示などがあり、「愛」と「憎」を同時に満たせる、非常に魅力的な要素がある。

 しかし、そもそもの「憎」を成り立たせているのが「愛」であり、根本的にこの行為の源にあるのは「愛」である。自身の心の防衛が必要になってしまい、それを攻撃性へと変換させねばならないほどの「愛」があるからこその「強姦」や「侮辱」である。それによって心の平穏を得るためには「自分自身の否定」が必要となってしまう。「愛する自分」を押さえつけ、「憎む自分」を前面に押し出す。しかしどちらも自分であり、「憎む自分」はそもそもが「愛する自分」がなければ存在しえない自分である。

 「愛する自分」を否定するために「憎む自分」を作り出しても、土台となる「愛する自分」は消えることはない。どころか、「自分で自分を否定する」という矛盾を抱え、それはますます相手に対する攻撃性という形で現れる。それはすなわち「自身への攻撃」である。それによって自分もまた傷つき、その心の痛みを感じないためにそれを憎しみに転換する。これを繰り返す。

 「一番目」を孕んだ「強姦」のあと、恐らく再び同じことを繰り返してはいないだろうとゲームで示される内容で感じたが、この想像劇においては、以後彼女に対しては攻撃的になるか、徹底的に会わないようにしたのではないだろうか。

 などということを夢想してみた。まあ、一つの可能性である。

 

 さて、「ママ」はもともと相手を優しいと思い、また恋人の兄という立場であったからこそ頼っていたわけであるが、裏切られることになる。

 「強姦」というのは女性にとっては嫌悪感どころの話ではない事象である。

 ちなみに、以前とある本で「強姦」の際の恐怖心やその他負の感情によって脳そのものに与えられるダメージは場合によっては致死量であり、それによってまともな生活が送れなくなる場合などもあるらしい、と読んだような記憶がぼんやりとあるのだが、実際どうなのだろう? 少なくとも、心身へのダメージが計り知れないものであることは、様々なところから知ることはできる。

 「ママ」が身ごもった子供に対してことさら攻撃的で否定的で残虐なのは、上記の要素が関係しているかもしれない。

 「強姦」されたストレスだけでもとてつもない苦痛であると思われるが、それによって「孕んだ」という事実は、心が引き裂かれるものであるはずだろう。

 しかも、彼女は当時まだ学生である。私の予想では中学生程度であり、妊娠という事実を抱えて生きるにはあまりにもつらい環境だ。

 学生で妊娠する、という事実は、たとえそれが「強姦」という犯罪のためであったとしても、「妊娠した当人」が後ろ指をさされ、人格否定すらされるものである。「妊娠」に自らの意志は関係はない。はっきりと書かせていただくが、避妊しても妊娠するときはするのである。一番の避妊はそもそも性交をしないことだ。

 だが、「妊娠した」という事実があれば、周りは当人を「穢らわしいモノ」として扱う。学校という閉鎖空間において、そのように扱われることがどういうことか。「いじめ自殺」について目にする機会も多いと思われるが、閉鎖空間における「村八分」「人権剥奪」の恐ろしさの一端だけでも理解できるだろう。

 その可能性は、自らの胎に巣食っている。

 自分は何も悪くないのに。何故こいつはここにいるんだ?

 原因をつくったのは「彼の兄」であり、自分は被害者だ。しかし、ことが公になれば責められるのは自分だ。

 ここで「ママ」は自らの家族や恋人である「彼」に相談する、ということもできたかもしれないが、そもそも考えてほしい。できるだろうか? あなたなら、このような時に相談できるだろうか?

 学生で妊娠、ということで考えにくいなら、「殺人」などで考えていただきたい。

 

 誰かに相談する、というのは、相談相手をよほど信頼していなければならない。相談する内容が重ければ重いほど、周りへの影響が甚大であればあるほど、吟味しなければならない。

 「彼」には、相談しにくいだろう。文字通りの「彼」の兄がやったことである。

 そして「ママ」の家族に関してだが、私は「ママ」は虐待されていたのではないか、そうでなくてもあまりいい扱いを受けていなかったのではないか、と考えている。

 「ママ」の家族に関してはまた別の機会で書かせていただく。

 ともあれ、「ママ」には信頼に足る、あるいは安心して相談できる相手などいなかったと考える。

 「強姦」されたことによって心身共に傷つけられ、それだけでいっぱいいっぱいだっただろう所に、「学生で妊娠」というとんでもない事実まで背負い込むことになった。

 独りで。

 また、「孕む」ということはそれだけで負担がかかる。自分の中に自分でない何かがいる。それは自分の栄養を取り込んで、自分の中で生きている。

 妊娠という事象に関して私たちは軽く考えてしまいがちだが、「自分の中に存在する明らかな異物」という、残酷で非道な事実がある。

「授かった子供に対して!」

 という憤りに関して、私は心から同意する。しかし、腹の中にいるのは、「自分とは切り離された別人」であるのは事実である。明らかに自分の生命活動から全く外れた存在。これを自らの中に一定期間内包し続ける、というのが「妊娠」である。

 学生という状況下で、独りでこれらに対処しなければならないという事実に、どれだけの人が耐えられるだろうか。

 この状況を作り上げた者に対して怒りと憎しみを抱くのは、不思議ではない。

 

 はっきりとこの状況を作り上げたのは「彼の兄」である。かれが「強姦」しなければこういう状況にならなかった。

 しかし、「ママ」が「彼の兄」に対して、その恨みをぶつけるのはなかなかに難しい。「彼の兄」に対する恐怖心もあるだろうし、「彼」の家族に対してそういった感情を向けることを無意識的に拒むかもしれない。

 また、私の想像では「ママ」は自分の家族に関してはよくない状況にあり、「彼の兄」を自分の本当の兄のように感じていた可能性を考えている。

 つまり、愛する人の家族であり、自分にとってもかけがえのない家族でもある人間に、最悪の形で裏切られたことになる。

 とはいえ、いやだからこそ、「彼の兄」に対して直接その憎しみをぶつけ辛かった可能性がある。

 その場合、怒りや憎しみを向ける対象は、孕んだ子供「一番目」である。

 自分の胎にいるのは憎いあいつの子供であり、場合によっては憎む相手そのものであると考えるようになる。そうなると、憎いあいつが自分に胎の中にいて自分の中で自分の幸せを奪いながら成長しており、「また自分を苦しめるつもりか!」とますます怒りと憎しみを募らせることになる。

 彼女が「一番目」に対して行ったことは、自分がされた「強姦」や、その後の苦しみをそのままぶつける行為に他ならない。憎い相手の子供をそのまま憎い相手と同一化することで、本人に対して行えない復讐を果たしたのだ。

 

「二度と来るな」

 「ママ」は産んで殺した子供にそう語りかける。当然だろう。殺した子がまた自分のところに来るということは、自分がまた「強姦」されることに他ならないのだ。

 憎いあいつにまた自分が「強姦」されるなど、二度とあってはならないのだ。

 「強姦」された被害者の自分が、すべての苦しみを引き受ける羽目になる。被害者の自分一人だけがなぜ、子供に対しての責任を全て負わされるのだ!

 

「とりたい! とりたい!

 こんなもの、なくなってしまえ!」

 それは、「彼の兄」による「強姦」から始まった「ママ」の苦しみがあげさせる悲鳴だ。

 「妊娠」しなければ、これほどの苦しみを受けることもなくなる。自分一人だけで何もかも背負わなくてもよくなる。

 子供ができるから苦しい。だからできなくなればいい。

 それが、「とりたい! こんなものいらない!」と言わせるのだ。

 恐らくだが、女性の中にはこの「ママ」の悲鳴に共感した人もいるのではないだろうか。

 そう思うことは後ろめたいことでも罪でも何でもない、と思いたいところである。

 

 「一番目」自身は、この「箱庭」の外の生身の「ママ」に関して、どの程度知り、考えたのかは分からない。復讐心を抱いき、憎み殺したいと考えていたことが作中で示されるが、まさにその作中において、彼はそれを克服したようである。

 彼にとって大事なのは、自分たちの弟が「何かを変えてくれる」という希望を持つことと、「おにいちゃん」として希望たる弟たちの道を切り開くことである。

「どうでもよくなった」

 完全に復讐心を捨てたわけでもないようだが、彼は「ママ」に対する執着を捨てつつあったようだ。

 彼にとって大事な存在は自分の兄弟たちであり、「ママ」はその枠から除外されつつあったのだろう。

 それでいいのだと思う。「一番目」は「ママ」の「子供」であって、「ママ」そのものでもないし、「ママの一部」でもないからだ。

 「ママ」を憎むのも、そして、無関心になるのも、自由である。

 「ママ」を憎むことをやめた時、「一番目」は愛することも捨てる。大事なものは「ママ」から別のモノへと移る。そしてその対象は、自分自身をも傷つける「愛憎」の対象としてではなく、ただ純粋に「おにいちゃんになりたい」と思うことができた家族である。

「優しいママに会いに行こう」

 もっと別の、自分たちに対して酷いことをしない、優しい誰か。そう思うことができるようになったのは、彼が「ママ」に対する「愛憎」を捨てたからに他ならない。

 今の「ママ」に縛られたままでは、そう考えることはできない。

 最終的に「家族を守りたい」という彼の望みは叶わなかったが、「ママ」に対する執着を捨てることで自由になった彼の心が選んだ「おにいちゃんとしての自分」に関して、「一番目」は全うできたのだろうと考える。

 

 「一番目」は「ママ」という「愛情」の対象を「喪失」し、「憎しみ」を抱きながらもがき続け、最終的にその喪失体験を乗り越えたのである。

 

 さて、今回はこのあたりで終わろうと考えたのだが、少々考えたことがあるのでもう少しだけ、書かせたいただく。

 自分で『ママにあいたい』をプレイしたのち、他の方の意見を少々見た。実況動画も少し見てみた。

「こんなの親じゃない!」

「なんて親だ!」

 という意見が少し見えたのだが、私はこれらの意見を見てかなりダメージを受けた。

 「子供を身ごもった女性」「出産した女性」という存在に対するイメージというモノが少々見えた気がした。

 たとえどんな状況であろうと、身ごもった子供に対しては無条件に愛情を注ぎ、弱音を吐かないこと。

 女性自身の自由意志、というモノはこの場合完全に無視され、「強姦」被害者であり、ゲーム内の行動をせざるを得なかった「ママ」に対する心理的ダメージを心配する声が、残念ながら見えなかった。

 「母親」に対して求められることは、己の人間性の完全排除である、ようにしか見えない。「母親」以外になること、それ以外の可能性を示した途端、「母親だろうが!」とその女性の持つ「母親」以外の人間性をばっさり切り捨て、ただ「母親」であることを強制する。

 「殺人」に対して憤る。「殺すなんて!」と思うことがゲームにおいてもあっただろう。しかし、「母親」というフィルターがかかると、それとはまったく別の物が生まれていないだろうか?

 「ママ」が子どもを無残に殺したことに対して、私ははっきりと罪だと認識するが、「母親」であることとそれを結び付けて考えることは正しいのだろうか?

 私が正しいなんて言うつもりは……ありません。が、ひたすらに「ママ」だけに背負わせ過ぎていませんか? 彼女も人間ですよ?

 「強姦」し「生ませた」「彼の兄」に対しては、どう思われますか?

 「ママ」の「子殺し」に関して、彼に罪はありますか? ありませんか?

 すべて彼女一人の責任ですか?

 たまたま、「ママ」に関して心配する声にたどり着かなかっただけかもしれませんが……。

 

 ……ともあれ、今回はここで終わりたいと思います。

 お疲れ様でした。

 

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