人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

フリーゲーム『瞼の裏の世界』感想色々

 こんばんわ。

 今回は「てるふぉん」様制作『瞼の裏の世界』の感想を書いてみようと思います。

 よろしくお願いしま~す。

 

※プレイしてからお読みください。ネタバレ配慮は一切しておりません。

※一部グロテスクな表現が含まれております。苦手な方はプレイをお控えください。(「Freem!」の『瞼の裏の世界』注意書き)

 

  「てるふぉん」様の別のゲームは、以前記事にさせていただいております。
zaturon.hatenablog.jp

 では、始めさせていただきます。

 

 このゲームの結末に関して、救いがあるか否か、は意見が分かれると思われる。

 プレイヤーは特に苦労することもなくエンディングを見ることができる。が、瞼の裏の世界と、瞼を開いた世界とのギャップに関してはかなり驚く。

 この仕掛けに関しては、最後まで騙される人も多いのではないだろうか。私は『奈落の華』をプレイしていたことにより、「てるふぉん」様の物語上の「どんでん返し」を経験しているため、比較的初期に気づくことができた。

 が、気づいた状態でプレイしているとそれはそれで壮絶である。

「発狂する」

 主人公は確信していた。このままでは確実にそうなる、と。

 だが、この異様な状況において四日間正気を保てただけでも奇跡的ではないだろうか?

 

 エンディングにて、なぜ世界がこのようになってしまったのか、の説明がなされる。とはいえ、「なぜ」というのは実はどうでもよいことでもある。この物語はあくまでも主人公が内包する世界そのものであるからだ。

 魔王が呪いをかけた、でもかまわないわけだ。

 問題は主人公自身がどのように世界と接していこうと考え、実行し、最終的な決断を下したか、という一連の流れである。

 日がたつにつれ瞼の裏の世界は完璧になっていく。それでも限界は来た。四日目で死を選んだ。

 一日目にして生きている人を探そうと歩き回れたのは称賛に値するのではないだろうか。私なら自分の部屋に閉じこもって一歩も外に出ないだろう。

 それでも四日が限界だったわけだ。

 「痛いのも苦しいのもイヤだ」と考えるのも理解はできる。人々は「痛い」「苦しい」ということを様々な方法で訴えながら、変質していっただろうからだ。それを見ていたであろう主人公が「イヤだ」と考えるのは当然だろう。

 そして、痛みや苦しみのない方法で死ぬことを選んだ。

 

 ここからが問題なのだが、主人公は死んだのだろうか?

 エンディングでは、あの区域の生存者を探しているようなことが示唆されていた。主人公は果たして死ぬ前に保護されたのか、その前に死んだのか。

 生き残った場合を考えてみることにしよう。しかし、私個人の考えにおいては正直な話、救いがない。

 彼女は最終日、もう目を開けないことを決めた。瞼の裏の世界で死んでいくことを選んだ。

 現実の拒絶である。あの現実の中で死ぬことだけは避けたかったのだろう。せめて平和だった世界で死にたかったわけだ。そのためにはもうあの時に死ぬ以外になかったのだろう。

 目を閉じる。目をそらす。これらの言葉は自分にとって都合の悪い何かに対して、それらの認識を拒絶する、意識しないようにする、といった意味合いがある。日常においても、

「目の前の不都合な真実から目をそらす」

「彼の言動に対して目を瞑る」

 などという風に「目」に関する言葉を使う。

 現実に目を瞑ってしまえば、見ることができなくなる。瞼を閉じてしまえば、視覚情報が遮断されてしまう。それを心理的な行為に対しても使用しているわけだが、『瞼の裏の世界』においては物理的な意味も心理的な意味もあるわけだ。

 そして、主人公はまさに「瞼の裏の世界」で死んでいくことを選んだのである。文字通り「目を閉じた」状態で終わろうとした。

 そこを助け出された、とする。彼女は感謝するだろうか。

 あくまでも私個人の考えでは、感謝などすまい。むしろ、「なぜ助けたのか」と助けた誰かを責めるだろう。

 彼女の瞼の裏の世界は平和だ。逆に、目を開いた世界は地獄である。

「もう大丈夫だ。目を開けてもいいんだよ」

 誰かがこう言ったとして、誰が目を開けたいものか。大丈夫である保証なんてないのだから。

 誰かの声がして、意思疎通ができる。これは保証にはならないのだ。

 主人公は「ヒトは思い込みで死ぬことができる」と信じた。それなら、思い込みによって目をそらした現実が見えてしまう可能性もまた、あるのだ。

 たとえ、私たち自身は特に異常を感じなくても、

「もう世界はダメになった。地獄だ」

 と思い込んでいる彼女は、目を開けたとたんあの光景が見えてしまうかもしれない。

 その場合、いくらなだめても説得しても意味などない。それが彼女の世界、「瞼を開いた世界」なのだから。

 誰がどう言おうと、彼女自身にそう見えているならそれは間違いなく彼女にとっては現実で、真実だ。現に見えている必要はない。「そう見える」という確信があれば、それだけでいい。

 彼女にとっての「瞼を開いた世界」は私たちが間接的に見たあの地獄である。

 

 優しい誰かは彼女に言うだろう。

「もうあの世界はないよ。目を開けてごらん」

 これは主人公を追い詰める行為に他ならない。彼女はあの世界を必死に拒絶している。そのために「瞼の裏の世界」が必要なのだ。

 「瞼を開いた世界」を拒絶するには「瞼の裏の世界」が必要だ。彼女にとって「目を開けろ」は死刑宣告に他ならない。

 そして、その優しい誰かはいくら「大丈夫だ」と言ってもそれを否定する彼女に辟易するかもしれない。彼女のために言っているのに。もう大丈夫なのに。

「もう大丈夫なのだから、彼女はいい加減、目を開けるべきだ。いつまで逃げているつもりなのだ」

「彼女をあそこから救い出した人たちだってあの惨状を見たのだろう? でも、こういう症状にはなっていないじゃないか」

 などという声が聞こえてくるかもしれない。

 他の人が平気なのだから、お前だって平気だろう。これは誤解である。他人が平気だから当人も平気とは限らない。

 それこそ、彼女一人だけが取り残された状況、ということが現実だ。他人が平気なら当人が平気という理論ならば、その逆もありうる。

 他の人もひどい状況下で死んでいったのだから、彼女も当然そうなるはずだ、と。

 あの状況下で一人四日過ごす。そのことを分かる人は恐らくそういまい。仮に、同じ状況下で元気に過ごしている人がいるとして、比べてもやはり意味はないのではないか。

「あの子は同じ状況でもしっかり生きてるよ。あなたも見習ったら?」

 仮にこれを言われたとして、主人公はどう思うだろうか?

「助けてほしくなんてなかった! あのまま死なせてくれたらよかったのに!」

 まるで、人々から「なんてダメなやつなんだ」と言われるためだけに助け出されたような錯覚すらしてしまう可能性もある。

 仮にこうなってきてしまうと、「瞼の裏の世界」ももはや平和ではない。目を開けることができない場合、「目を開けろ」と言われ続け、責められる。しかし目を開ければそこにあるのは「瞼を開いた世界」だ。

 彼女に平和などもはやないわけだ。

 しかし、「目を開けろ」と言っている人たちからしてみれば、これは親切心でしかない。目を閉じていたら不便だし、危ない。もう危険がないことは、目を開いてしまえばすぐわかる。そうなれば、もうおびえることもなくなる。

 だから彼女は一刻も早く眼を開けるべきだ。このように考えるわけだ。

 

 彼女にとって「目を開けろ」は間違いなく「死ね」と同義である。しかし、言っている側からしてみれば、「生きろ」という意味なのだ。

 彼女が「目を閉じる」のは結局のところ「生きる」ためだ。そして、自分自身であり続けるためだ。

 彼女自身はゲームの最後で死ぬことを選んでいる。しかしそれは「発狂する」と悟ったが故のことであり、つまり「彼女自身」であり続けるためである。彼女が「彼女」のまま死ぬ。発狂したらもうそれは自分ではないのではないか? ならせめて「自分自身」として死にたい。

 つまりこれは生命活動として死ぬことを選んだことによって、彼女自身の意識の死を避けようとした結果ではないだろうか。発狂したらもう自分ではない。発狂したくない。

「このままでは発狂する」

 これはようするに意識において死ぬのはイヤだということであろうか。

 少なくとも彼女は「発狂する前に」死ぬことを選び、行動した。

 だが、助けられた場合、彼女はそれを喜べるのか。それに関する私個人の考えは、ここまで読んでくださった方なら理解していただけていると考える。

 もちろん、助かったことによって何の負担もなく眼を開けることができるかもしれない。それなら一番いいだろう。あの四日間の記憶には苦しむことになるだろうが。

 しかし、ゲームの流れや最後の彼女の「言葉」を読むに、助けられたことで素直に目を開けることができる心理状態とは思えないのである。彼女の「瞼を開いた世界」には、あの地獄が焼き付いているだろうから。それを確信したからこそ、彼女自身「精神死」を迎える前に「肉体死」の方を選んだのではないだろうか。

 

 ここまで読んだ方で、

「ようするにお前は彼女が死ぬべきだと考えているのか! 人でなし!」

 と考える人もいるかもしれない。

 それに関して、申し訳ないが答えを返しようもない。私自身、

「もしこうなってしまったら、死んだ方がいっそ幸せではないか?」

 と考えてしまっているのは事実である。しかし、だから「死んでしまえ」と考えているかと言われれば違う。

 とはいえ、私が彼女を助ける側、上記した「親切な誰か」の立場になった場合、

「ここまでしてやっているのに、なんて奴だ!」

 と考えてしまう可能性は高い。実際、私は強くもなければ優しくもない、と自覚している。

 その時の自分のふるまいを考えれば、ゲームにおける経験をした主人公を傷つける程度では済まないことは明白と考える。

 私が彼女を追い詰めて殺す立場になるかもしれない。

 

 互いを思いやってもすれ違うものだ。人間そこまで強くない場合が多い。

 だからこそ、このゲーム後のことに思いを馳せると、なんとも言えないのだ。

 ……あなたなら、どうするだろうか?

 主人公の立場なら、あるいは「親切な誰か」の立場なら、どう考えるだろうか? どう行動するだろうか?

 「瞼の裏の世界」と「瞼を開いた世界」。私たちはこの主人公ほどの劇的な状況ではないにしろ、その二つの中で生きている。

 

 ……というところで、今回は終わります~。

 お疲れ様でした~。

 

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