人生雑論ノート

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フリーゲーム『Witch's Heart(ウィッチズハート)』感想色々 その捌

 こんばんは。

 「BLUE☆STAR」様制作フリーゲーム『Witch's Heart(ウィッチズハート)』、感想8個目です。

よろしくお願いしま~す。

※ネタバレ配慮なし。プレイしてからお願いします!

※プレイの推奨年齢は15歳以上。

 

 『Witch's Heart(ウィッチズハート)』感想リンクはこちらです。

zaturon.hatenablog.jp

 

 では、今回の記事に関しましては副題を、

『『Witch's Heart(ウィッチズハート)』を象徴する名キャラクター、人間アーシェ・ブラッドレイについて』

 とさせていただきまして、改めて、書かせていただきたいと思います。

 よろしくお願いしま~す。

 

 さて、いきなりだが私はとある人物について、今までの記事で「普通の人」と呼び、自分なりの考えを書かせていただいていたが、改めてその彼、アーシェ・ブラッドレイについて書かせていただきたいと思う。

 すでに過去の記事で書いたことなども改めて書くかもしれないが、そのあたりはご了承願いたい。

 また、今まではあえて直接的に名前などは出さないようにしていたが、今回の記事に関してははっきりと個人名を書かせていただくので、こちらもご了承願いたい。

 Twitterなどに考えたことや感じたことなどもツイートさせていただいていたが、『Witch's Heart(ウィッチズハート)』に関することの場合、圧倒的に彼、アーシェ・ブラッドレイに関するものが多いような気がする。

 正直な話、あまり好意的ではない内容と人からは見られたかもしれないが、はっきり言おう。私は彼が大好きである。

 『Witch's Heart(ウィッチズハート)』という物語において、彼ほど物語のテーマを体現し深掘りし、かつ、物語そのものの明暗を分けるキャラクターもおるまいと考えている。

 『Witch's Heart(ウィッチズハート)』はあくまでも「人間」の物語である。「愚かな人間が踊る」様、その悲劇と喜劇性によって成り立つ物語である。

 悪魔たちはあくまでも引き立て役であり、物語の主役ではない。

 なるほど「ヘイター」たちもまた、間違いなく人間ではある。しかし彼女らはすでに故人であり、表舞台に立つ存在ではない。

 また、この物語においてある種の共感を最も得られやすいキャラクターは、間違いなくアーシェ・ブラッドレイであるはずだ。

「ほかにも人間はいるだろう?」

 そう、確かにその通りだ。ほかにも人間はいるが、彼らは「一般的人間」としてみる場合、思わず「一般的?」と首をかしげてしまう部分はないだろうか?

 「不老不死」ことウィラルド・アードラー、は「一般的人間」という存在からはあまりにも遠く離れすぎている。彼の願いは「死ねないからこそ死にたい」である。私たちは彼の意志や感情を想像すること自体はできるかもしれないが、共感はできないのではないだろうか。私たちは、何かあればすぐに死ぬからだ。私たちは「死んでしまうかもしれない」と考え、死に怯え、死から逃げる立場にある。また逆に、「もうイヤだ!」と考えた時も、難しいもののちゃんと死ねるのだ。死ぬことができない彼のことなど、根本的に理解しようもなく、また、それ故に共感もし辛い面がある。

 「一般的人間」から遠く離れているのは、「化け物(?)」こと、ノエル・レヴァインもそうだろう。呪われて屋敷から出られず、活動できるのは夜の間だけ。また、そうなってしまう前もなかなかにすさまじい人生を送っているが、あれほどの状況はなかなか少ないだろう。

 「魔女信者」シリウスギブソンはウィラルドやノエルに比べればまだプレイヤーに近いだろうし、ある意味、「一般的人間」である。しかし、彼が体現するのは『Witch's Heart(ウィッチズハート)』における負の面ではない。むしろその被害者になることが多い人間であり、「愚かな踊り」に巻き込まれてしまう側である。自ら「踊る」ことはあまりない。とはいえ、そういう側面からすれば彼もまた『Witch's Heart(ウィッチズハート)』における「人間」を代表するキャラクターであるともいえる。彼自身「秘宝」の持ち主ではないが、それを求める人間と宿す人間の板挟みになり、理不尽になぶられることになる場合が多い。彼自身に原因がないからこそ最もひどい目にあっている「人間」であり、なるほどアーシェとはまた違った側面で共感されやすいともいえる。

 しかし、それは結局「踊る」人間がいるからこそであり、その「愚かな踊り」を行う人間アーシェがいてこそでもある。また、アーシェが踊らずともウィラルドが踊る。さらに、過去においても「秘宝」を巡った悲劇に巻き込まれてもいる。「人間の願い」に最も翻弄されているのは、実はシリウスなのではないだろうか。

 そしてその「秘宝」の持ち主、クレア・エルフォードだが、彼女も「一般的人間」とは言い難い。何のことはない、「秘宝」の持ち主である、この一点で彼女は「一般的人間」などという場所からはどうしても遠ざかる。

 もう一度書かせていただくが、『Witch's Heart(ウィッチズハート)』は「人間」の物語であり、「愚かな人間が踊る」様、その悲劇と喜劇性によって成り立つ物語である。そして、この物語において最も「愚かな踊り」を舞っているのが、間違いなくアーシェ・ブラッドレイそのヒトである。

 ここで、アーシェファンの方々はもしかしたら、「彼をバカにしているのか?」とお考えかもしれないが、それに関しては全くない。むしろ、私は物語を見返すたびに思う。『Witch's Heart(ウィッチズハート)』において、アーシェ・ブラッドレイほど、あまりにも人間らしい人間はほかにいない、と。

 人間の持つ「理性」と「狂気」をこれほどうまく表現できるのは素晴らしい。私は過去の記事で、「彼は自ら理性を放棄する」と書いたのだが、それは結局のところ、彼が「人間的理性」に縛られた「普通の人」に他ならないからだ。そもそも「放棄する」必要すらない人間として、「町長」ニコラスがいる。私は過去の記事においては主にアーシェとシリウスとを比べたのだが、アーシェとニコラスとの対比も面白いかもしれない。「秘宝」を求めて人を欺き、命も奪う。この行動においても、この二人には大きな差がないだろうか。

「家族に会いたい」

 些細な、それでいて絶対に不可能な願いである。この願いのために彼は「踊る」。

 しかし、ニコラスは違う。彼は「踊らせる」のである。自身が踊るのではなく大衆を「踊らせる」ことによって目的を達成しようとする。また、そうすることによって人々が自分を裏切ることができないようにもしてしまう。

 「踊らされた」人々はその結果無残な殺戮を何度も行っている。つまり、ニコラスの言葉がウソになれば自分たちの行いは「魔女に対する処刑」などではなくなるのだ。それゆえ、民衆は彼を裏切れないし、支持することをやめられなくもなる。自分たちを守るためには、何があろうとニコラスが悪ではならないのだ。

 しかし、アーシェは恐らく、そこまではできない。ニコラスほどにうまく人を扇動もできないであろうし、あそこまでやろうとする意思もないだろう。基本的に彼の行いは、自分の手を汚すこと前提である。

 彼は自分自身で惨劇を繰り広げ、それこそ生きたまま心臓にメスを入れすらする人間ではあるが、ニコラスのように「人間に対する情」がないからこその所業ではなく、逆に「罪の意識」と「倫理観」を持ち合わせるが故の行動ではないだろうか。

「あなたの手伝いをするなんてウソ」

「バカで騙しやすそうだったから」

「信じたって、裏切られる」

「私のために死んでくださいよ」

 彼が殺そうとする相手、あるいは殺した相手に賭ける言葉は、おそらく過去の彼自身に対しての言葉ではないかと考える。あるいは、「自分を殺そうとした友人」を自分の中で再現している場合もあるだろう。

  過去の出来事が起こるまで、「悲劇」など彼にとっては自分からは程遠いモノだった。それこそ、友人がノイローゼになってしまっていることすら想像の範囲外だった。もう一人の友人からも、勉強ができることに対して嫉妬されていたことすら、彼にとってはあり得ないことだっただろう。彼は自分が悪意を受けることがあるかもしれない、という想像を働かせる必要がなかった。同時に、だからこそ誰に対しても無頓着だった。

 愛する家族がいて、その家族と今後も生きていくと考えるのが当たり前の人生であったがゆえに、「友人の裏切り」があまりにも大きかったのだろう。

 しかし、ここで「信じる」ということに関して思いつくのはクレアなのだが、彼女と比べてアーシェの「信じる」はどうだろうか?

 クレアはそれこそ自分の命を懸けて相手を信じようとしたが、アーシェは特にそこまでする必要もなく、また、そこまでしなければならないと分かった時点で友人から離れてもおかしくない、とも個人的には考える。クレアは相手に対し深く共感しようとし、ともに重荷も背負おうとするが、アーシェは単純に同級生だからといった、それくらいの理由だったはずだ。

 そして、私たちもまた人とのつながりにおいてはクレアよりもアーシェに近いはずだ。クレアは数日一緒にいただけの人間のために全力をぶつけることができるが、アーシェは数日一緒にいた程度の人間など、殺せて当たり前、という思考を「しようとしている」。

 プレイヤーはさすがにここまで考えないだろうが、数日一緒にいただけの人間相手に自分を丸ごとぶつけるのは難しいだろう。アーシェの場合、それなりの期間友人として過ごした相手との距離を特に縮めるつもりもなかったようだ。当たり障りのないことを言い、当たり障りのない付き合い方をする。たまたま友人として付き合うようになったのが、彼らであったというだけかもしれない。

「信じたって裏切られる」

 彼は、このように言うほど友人を信じていただろうか? 疑いもしていなかっただろうが、特に信じようとしてもいなかったのではないだろうか。簡潔に言うと、「どうでもよかった」のではないだろうか。

 信じるとは能動的な行為である。過去の彼はこの件に関して能動的だっただろうか? 自分には関係ない、という態度だったはずだ。

 そしてそういった人間関係は、「一般的人間」としてはありふれたものだろう。

 他の登場人物たちは皆、それまでに何らかの「喪失」を経験している。当たり前にそこに在ったものが、次の瞬間にはもうなくなっている、奪われてしまうという現実を幼いころにすでに知っているのだ。

 アーシェはそうではない。そうでないからこそ、彼は「喪失」の痛みを知らない期間を長く持てたのだ。それ故に、彼はその痛みに耐えることが難しかった。

 友人から「お前を狙ったのだ」と言われ、彼は自分を責めたに違いない。同時に、その時の彼の言葉と、あの笑みも焼き付いたのだろう。彼の世界がおかしい時、人はみな笑っている。あの顔の形は、あの時の友人の顔だろう。

 「幸福」とその「喪失」、それによるトラウマと、それを払拭するための行動。結果として、その行動がまた自身のトラウマを抉り、強化することにもなる。

 悲しみと怒りと、後悔。それは自分に対するものもあり、自分以外の者にも向けらる。

「家族に会いたい」

「家に帰りたい」

「昔に戻りたい」

 「痛み」を知らなかった頃に戻りたい。あの「悲劇」をなかったことにしたい。

 それはとても、とても「人間的」な感情ではないだろうか。

 同時に、自分がもっとしっかりしていたら、自分がもっと早く帰っていたら、という後悔は消せない。だから彼は無意識的に「自分自身が一番傷つくやり方」を行っている、という可能性もある。この場合、自分で自分を罰しているのだ。

 家族に会えない虚無感、罪悪感などそれに比べればなんてことない、という趣旨の発言もしているが、とても耐えられているようには見えないし、もしかしたら、耐えようとしているわけでもないのかもしれない。

 家族というかけがえのないモノを失った、それを埋め合わせるために必要なものを、彼は求めたのかもしれない。失うきっかけとなった自分自身に対する怒りと後悔の念を、消したいとも思ったかもしれない。

 それが、「罪悪感」であるとしたら?

 脳内麻薬というモノも知られているが、彼は実際の麻薬に手を出すのではなく、感情を麻薬として使っているのかもしれない。

 無論、薬も感情も、麻痺するだろう。

 最初は、「魔女なら何とかしてくれるかも」という言葉にすがることで、あらゆる痛みや苦しみから逃避していたのだろうが、それも効かなくなる時は来るだろう。次にすがるもの、そのためにしなければならない行動。いや実際には、「しなければならない、と【決めた】行動」と言うべきか。

 彼は現実から逃げたいのだろうと私は考えた。そのために「家族に会いたい」と考えている、とも。しかし、その家族は彼の行いを知れば何を言うだろうか? また、あの家族とともに育った彼が、「ヒトとしての倫理観」を持ち合わせていないわけがない。

 彼は「理性のブレーキ」を外したのではなく、常に無理矢理「理性に反する行動のアクセル」を踏み続けているのだろう。無論、「理性のブレーキ」はそのままで。

 そして結果的に彼は自ら「理性を放棄」することになるわけである。

 彼は完全に「人間的」であることをやめることなどできないし、それをやめた時点で恐らく「願い」に固執する必要もなくなる。非人間的な存在としてニコラスが最も『Witch's Heart(ウィッチズハート)』において適切な存在だが、彼はあの境地に達することはできない。

 しかし人間的な面において、誰かを信じるということに関してはクレアと並ぶことはできないし、悲劇を抱いて狂わない選択をしたシリウスのようにもなれない。

 「不老不死」となってなお、人間としての感情を捨てることがないウィラルドとも、やはり違う。

 ある意味、一万回近くやり直してなお「みんな優しい」と言って、結局何をなすべきか、なさざるべきかを決めかね続けたノエルとは、ある意味近いともいえるかもしれないが。

 つまり、どちらも精神的にかなり「幼い」と考えるのである。自分の意志で立って歩けない、という意味では同じように見える。

 製作者IZ様の絵が公開されたが、ノエルは腕をつかんでイヤイヤと子供のようにふるまっているようにも見えた。実のところ、私はノエルに関しては特に意外ではない。

 意外だったのはアーシェである。笑顔でありつつも後ろ手にメスを持ち、機会をうかがっている、という感じの絵でないのを意外に思ってしまった。あれはなかなかに面白かった。むき出しの感情を書けばそうなる、ということなのか、私が考えている以上に余裕がない、という話なのか。

 人間アーシェ・ブラッドレイに関して、かなり長々と書かせていただいたが、

『『Witch's Heart(ウィッチズハート)』を象徴する名キャラクター、人間アーシェ・ブラッドレイについて』

 というテーマで、改めて私なりに彼を表現してみた。

 無論、「違う!」という人がいてもかまわないし、その方がいいのだろうと思う。

 彼は間違いなく「人間」であり、プレイヤーの目をよく引くことになるのも、やはり彼があまりにも「人間的」だからだろう。

 他愛ない存在に心を奪われるほど、人間という存在は「出来て」はいない筈だ。その辺の石ころに対し一時的に怒りを燃やすことがあっても、それを持続させることなどないだろうし、人間は結局一番興味を持つのは人間だ。芸術も「人間」の凝縮されたものである。

 『Witch's Heart(ウィッチズハート)』がこれほどまでに支持されるに至ったのは登場するキャラクターたちが非常に魅力的だからであり、その中でも今回特に私が注目したのは人間アーシェ・ブラッドレイであった、それだけの話である。

 

 というところで、今回は終わらせていただきます~。

 お疲れ様でした。

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