こんばんは。
「野乃ノ 之」様制作フリーゲーム『ママにあいたい』感想、5個目となります。
よろしくお願いします。
私が書いたため、暗い、痛い、と思うことも多いと思われます。
また、生々しい表現を多用すると思われます。
お読みいただく場合、ご了承願います。
※プレイしてからお読みください。ネタバレ配慮はしておりません。
まず、『ママにあいたい』感想リンク集です。
では、始めさせていただこうと思うのですが、その前に一つ。
私、以前の感想記事で「五番目」と「六番目」を間違えておりました。今回の記事は彼らについてなので、改めて謝罪させていただきます。
申し訳ございません。
気を付けますが、また間違えてしまう可能性もあります。ご了承願います。
そんなわけで、今回の記事は「五番目」と「六番目」について。
彼らは双子ということで、同じ記事にて書かせていただく。
彼らに関しては、「タネ」たちに「出来損ない」といわれる場面が出てくる。片や心臓がなく、片や脳がない。
これらの臓器がないことに関しては恐らくもともとだと思われるが、最終的に「六番目」が姉や兄の体の一部を受け継いで生まれてくることができている。
「三番目」が脳、「五番目」が腕を提供している。二人とももうすでに外で生きていくことが不可能な存在である。「三番目」の心臓部分があったなら、それも「五番目」に提供していた可能性はあるが、「五番目」と出会った時点ですでに不可能だったのだろう。
恐らく「三番目」と「五番目」で、「六番目」だけは何とか生かそう、生まれることができるようにしよう、と相談したのではないかと考えている。
「私の分も生きて」
「三番目」は「六番目」に対してそう言ったが、これは言葉通りに「無事生まれて、幸せに生きてね」という意味だろうと私は考えている。
しかし、「三番目」では「六番目」を導くことは困難である。実際にアドバイスをする役目は「五番目」が請け負ったのだろう。作中の彼の言動を見ていると、基本的に「六番目」が自分自身で考えて行動するよう促しているように見える。「三番目」について知っていたにもかかわらず黙っていたことについては、「脳がなくて理解できないから」という趣旨の発言をしているが、あくまでも自分自身でいろいろと見て回るように導きつつ、彼自身に答えを出させようとしているように思える。
そして、その結果として「あんな人の子供として生まれるのはイヤだ」と「六番目」が言ったとしても、「五番目」はそれを受け入れるつもりだったのではないだろうか?
とはいえ、それを受け入れるということがどういうことなのか、ということになってしまうのだが。
最終エンディングにおいて、彼が「誰」であるのかについての解釈が、かなり違いがあって面白い。
例えば私は「四番目」だと過去記事に書かせていただいた。
また他の方の場合だと、彼は「六番目」自身であり、作中で「ママにあいたい」と言っていたのは「ママ」を殺すためではないかという解釈や、「ママ」に虐待されていた可能性を示唆する考察、はたまた「五番目」、「三番目」ではないかというモノまで、非常にバラエティーに富んでいる。
生まれる瞬間から一気に最終エンディングにまで場面が飛び、プレイヤーが「え? え?」となっている状態の中、ゲームそのものが終了するという演出が、否応なしにプレイヤーをその世界に引きずり込むのだが、間に入るバグった画面がさらに不穏な空気を作り出す。
そういった諸々の要素から、それぞれが自分なりの解釈をせざるを得ないのだが、その解釈の仕方や内容にこれほどまでに個性が出るのは興味深い。
エンディング「いってらっしゃい」からの落差がかなり激しいが、だからこそ「どうしてこうなった?」と考えざるを得ないわけである。
そして私の解釈は、最終エンディングの彼は「六番目」の体を乗っ取った「四番目」となったわけだが、他の解釈も十分あり得るので、正解は製作者様のみぞ知る、ということになる。
「五番目」に関しては、作中の発言から私の中では除外されている。その発言は、
「「ママ」は見た目以上に頭を欲しがる」
というモノである。まだ生まれていない命が、現代社会における一つの真理をしっかり読み取っているあたりなんというか、複雑な気持ちである。
「五番目」は「ママ」のためになるように考えているのだな、とこの発言から読み取ることができるのではないだろうか?
また、「「ママ」を幸せにしてくれ」という非常にストレートな言葉もある。しかしこのあたりも解釈が分かれ、「死合わせ」ではないか? という考察もされているが、私個人としては「頭を欲しがる」発言から考えてそのまま「幸せ」だと考えている。
しかし、「五番目」が「ママ」のことを考えているような言葉がある中、「六番目」自身がなぜ「ママ」に会いたいか、ということについては作中にて一切発言がないことはよく指摘されている点ではないだろうか。だからこそ「ママにあいたい」のはそもそも「殺すためだった」という考えを否定する要素も、肯定する要素もないこととなる。
それでも「六番目」が最終エンディングの彼ではないと考えたのは、「五番目」が「「ママ」を幸せにしてくれ」と言ったのに対して、兄が大好きな「六番目」が裏切るような真似をするだろうか? という個人的感情によるものである。
あるいは私自身が、「六番目」に「五番目」を裏切るような真似をしてほしくないという願望を持っているということである。
しかし、「六番目」が兄のことが大好きであることと、「ママを殺すためにあいたい」と考えることは矛盾はしない。実際に行動に移すときには引っかかってくる可能性もあるのだが、これも「ママ」の状態によっては矛盾しなくなるのである。
「ママ」が過去の出来事によって精神的に追い詰められていると考えた場合、「殺して楽にしてあげる」という思考が働く可能性がある。このあたりを考えると、「ママ」が虐待していたという考察も出てくることになる。
また、「六番目」が兄のことが好きであるからといって、兄の言葉をそのまま実行する必要もない。さらに、「幸せ」の解釈次第でどうにでもできる問題でもあり、結局、「六番目」自身が最終エンディングの彼であったとしても何の矛盾もない、という結論にも行きつくのである。
それにしても、「五番目」と「六番目」の父親であるが、私は作中の「ママの声」から「あの人」ではない、と考えもしたのだが、「箱庭」の中にいる「タネ」たちの存在を考えると「あの人」でもおかしくはない、とも考えてしまい、実はかなり混乱している。
「半分はお前と同じ血」
「タネ」の言葉なのだが、「タネ」がそもそも「何か」ということを考えると、「ママ」ではないはずなので父親ということになる。
「ママの声」によると、
「五人目を孕んだ時にはもうどうでもよかった。
でも「あの人」は、そんな自分を支えてくれた」
とのことなので、「ママ」が「あの人」と会ったのは、「五番目」および「六番目」を妊娠して以降であると解釈している。
しかし、「タネ」の存在を考えると成立しなくなるのである。
その一方で、「三番目」が作中にまだ魂ではなく物理的存在として在るということを考えると、あまりこのあたりを真剣に考える必要もないのかもしれない。
「タネ」は「すぐ消える」と発言してはいたが、あの「箱庭」と私たちが認識している空間とでは根本的に在り方が違うという可能性も否定できないので、考えても意味がない可能性はある。
しかしそうなると、「五番目」と「六番目」の父親がどういった存在なのかが一切わからない状態にもなる。基本的にある程度の父親の情報はそれぞれ出てきていたが、それが「五番目」と「六番目」に関してはないことになる。
一応「タネ」の「半分はお前と同じ血」という発言があるものの、これは結局どう解釈すべきなのか。
これに関しては私ではお手上げ状態である。
一応、「五番目」と「六番目」を妊娠した状態の時には目標としていた額の金を得ることはできていたらしく、しかし「もう死にたい」と思うような状態であったらしいので、そうなるまで「三番目」の時のような稼ぎ方をしていたと考えると、「客」の誰かの可能性が高いだろうか?
ちなみに「その「客」が「あの人」じゃないの?」ということも考えられる。「客」として「ママ」と出会ってから「ママ」を支えるようになったのかもしれない。
などと考えることもできるが、それ以上にはならないわけである。
ちなみに、私の考える「ママ」は見た目に関してはかなりの美人であり、内面に関しては恐らく「普通の人」だったのではないかと考えている。私個人としては「ママ」が虐待されていたということも考えてはいるが、それとは別に、根本的に考えて特に悪人でも善人でもない「ごく普通の人」と考えている。
ただ、「稼がないと!」という意識のもと本当に目標額を貯め切ってしまったようなので、割とアクティブなのかもしれない。あと、作中の発言を見る限り常にかなりギリギリのがけっぷち状態であり、それでも頑張って生きていたようなので、バイタリティもかなりあるタイプという見方もできる、かもしれない。
基本的に「ママ」の性格が悪いという見方がされていることが多いようであるし、それはそれでその人なりの解釈だろう。単純に私個人がこう考えているだけである。
あの作中の行動から「悪い人」という見方ができるかもしれないが、その時の状況などから考えると、あのような行動をする可能性自体は誰にでもあるのではないだろうか。
大切な人、家族友人恋人などから裏切られ、心身ともに傷つけられる。
それをきっかけに個人で抱えるには重くてツラすぎる秘密、状況を独りで抱えざるを得なくなる。
意識的に袋小路となり、その時に攻撃しやすい誰か、何かに対して執拗に攻撃、場合によっては殺害する。
私は基本的に根性がないので、「ママ」よりひどい状況になる予感しかしない。
ちなみに「ママ」が「一番目」を生むと決めた場合、確実に世間から冷たい目で見られ、大した支援も受けられない状態で、
「あなたが生むって決めたんでしょ?」
と言われて突き放されることになる可能性が高いのではないだろうか? 「彼」や「彼の兄」からの支援も、あまり期待できそうにないようにも思う。
いや、してくれる可能性もあるが、恐らく相手も大人ではないため、結局大した支援は期待できないだろうし、「彼の兄」と「彼」がこの事実を知ってどういう行動に出るか、というのはある意味「二番目」が生まれたことによって証明されている。
「ママ」の家族が特に虐待などしていなくても、娘が学生の身で出産したということになれば、やはり世間から冷たくあしらわれるようになるだろう。それまでの生活は続けられなくなるかもしれないし、そのあたりを考えると娘を放り出す可能性もあるのではないだろうか?
基本的に、シングルマザーは生き辛い世の中ではあるようにも思う。
さらにそういう方向に行くと、「二番目」以降の子供たちは生まれない可能性が出てくる。
父親が変われば生まれてくる子供も変わるので、「彼ら」が生まれてくる可能性はかなり下がると思われる。
産むと決めても、産まないと決めても、「ママ」に対する世間の目は確実に冷たくなるし、後ろ指をさされて生きていくことになるのではないだろうか。
ある意味、「ママ」に選択肢などなかったのかもしれない。
というところで、今回は終わりたいと思います。
お疲れ様でした。