人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

フリーゲーム『ママにあいたい』感想色々 その参

 こんばんは。

 

 「野乃ノ 之」様制作フリーゲーム『ママにあいたい』の感想、三つ目となります。

 よろしくお願いします。

 私が書いたため、暗い、痛い、と思うことも多いと思われます。

 また、生々しい表現を多用すると思われます。

 お読みいただく場合、ご了承願います。

※プレイしてからお読みください。ネタバレ配慮はしておりません。

 

 まず、フリーゲーム『ママにあいたい』感想リンク集です。

zaturon.hatenablog.jp

 では、さっそく始めさせていただきます。

 

 今回は「三番目」について、なのだが、正直彼女自身については書きにくく思っている。

 「三番目」自身と話をする機会はほとんどなく、「三番目」と融合した「タネ」と会話する機会の方がはるかに多い。とはいえ、完全に「タネ」自身というわけでもなさそうではある。

 とある場面で「三番目」を選んで行動をしていると、「三番目」の記憶を見ることになる。その際、「タネ」はその記憶自体はないはずなのだが、それを見て明らかに知っているような言葉を漏らしている。知らなければあのように言ったりはしないだろう。

 しかし、「四番目」については一切知らないようなので、「三番目」との記憶の共有は完全になされているわけでもなさそうだ。

 ともあれ、純粋に「三番目」自身の話というのはなかなかに難しいということになる。

 

 そもそも「タネ」に自我があるというのは、どう考えるべきなのか、個人的にはかなり悩む。

 作中において、「六番目」に対して好意的な「タネ」が、「タネ」にも色々な個性を持った様々なモノが存在することを教えてくれる。実際、話しかけても反応がないモノや、「六番目」に対して明らかにバカにした態度をとるモノもいた。

 しかし彼らの存在意義を考えた場合、彼らの個性など最終的に不要でもある。あるいは、彼らの個性が受精卵にそれなりに影響するのだろうか?

 しかし、「六番目」の言動を見るに、「タネ」としての意識など欠片もないようである。これは脳がないからなのだろうか? どうも、そういうわけではなさそうだ。

 作中でセーブをすることができるモノがあるが、あれが「卵子」だろう。明らかに「卵子」に「人格」は無いようだった。「タネ」が実に個性豊かであるのに対して、「卵子」は没個性的である。

 あれは各々の役割の差かもしれない。「卵子」は完全に受動的である。「タネ」が来るまで待っているほかない。しかし「タネ」はそうはいかない。機能、役割的に能動的でなければならないのだ。それを「個性を持つか否か」で表現したのかもしれない。

 しかし、言葉を発することができる「タネ」の一部が「自分たちは選ばれた存在だ」と言ってはいたが、言葉を話すことができようがなんであろうが、「卵子」のもとにたどり着き「受精卵」になることができないモノは、すべて消え去る運命である。好意的な「タネ」も、「すぐ消える」とはっきり自覚していた。とはいえ、特に悲観している様子もなかったので、それこそ「そんなもの」だと考えていたのかもしれない。

 我々が考える「命未満」の存在がそこまで達観して自分の存在を肯定しているのも、なかなかに味がある。

 とはいえ、たどり着いて存在意義を全うしたところで、子供たちを見るに「タネ」としての意識はみじんも残らないようだ。どのみち「タネ」は消えてなくなるということだろう。だからこそ、一部の「タネ」たちは自分たちを「特別」だと言うのかもしれない。今、自分たちは存在する。消えていない。「卵子」にたどり着いて「受精卵」となって、結果消え去るという道もたどっていない。

 どう行動しようと消え去る彼らの、存在意義を果たすことこそが自己消滅への道である彼らなりの、存在するという事実に対する自己主張かもしれない。

 意味などまったくないのだが。

 

 そんな中、「三番目」と融合した「タネ」は「三番目」に対して好意を持ち、あくまでも彼女のために自分の存在を全うした。

 それ以降は「おねにいちゃん」と呼ばれ、「六番目」に兄弟として扱われることになるが、心中複雑そうではある。これに関しては正直想像しようもない。

 「六番目」に対して「恩人」という意識で接しているが、「三番目」が「自分の分も生きて」と言っていたことも影響するだろう。「おねにいちゃん」一人での行動になると、「彼らがママに会えますように」と言って、以降消える。この場で消えない選択肢の場合、「三番目」自身が身を挺して守ってくれる流れになる。

 「三番目」は「ママの声」が聞こえてきても笑顔を絶やさなかったらしいが、その心中がはっきりとは描かれていない。しかし、個人的には純粋に「六番目」に生まれてほしかったのではないか、と考えている。つまり、「ママ」を殺してほしいと考えていたわけではない、ということである。

 「三番目」と話をしたであろう「五番目」は、「ママを幸せにしてくれ」と言っている。これは文字通りの「幸せ」と私は解釈している。「三番目」と話す機会がそれなりにあったであろう「五番目」が純粋に「ママ」の幸せを願っているのを見て、私は「三番目」自身も「ママ」を恨んだりはしていないだろう、と考えた。

 

 その「三番目」であるが、最初から堕胎する予定で孕んだ子であったことが作中で語られている。

 「お金のことしか頭になかった」らしいが、「子宮をとるためにお金を貯める」という目的を持つことでかろうじて生きる気力を保っていたのだろう。そのための手段が、「最初から堕胎する予定で孕む」なのが本末転倒ではあるが、その時点で選択肢はほぼなかったのも確かだったとは思う。

 家族に対して紙にシャーペンで殴り書きした書置きだけ残し、家を出てしまった「ママ」は、まともに働くことはなかなかに難しかっただろう。身元がしっかりしていない人物を雇ってくれるところはあまりないだろうし、その時の「ママ」の状況でも働ける場所というのは限られてくる。

 実際のところ、「ママ」自身が無意識に自分自身をあえて痛めつける選択をしているようにも思える。

 「ママ」の中で「彼の兄」や「彼」に対して折り合いがついているわけもなく、自分が殺した命に対して、なんとも思っていないわけでもなかっただろう。殺した事実に何も感じていないなら、「あの人」に受け入れられた後の精神的に比較的落ち着いてきた状態で、

「ごめんなさい。私は、何度もあなたたちを殺してきたのね」

 など言うこともないはずだと私個人は考えているからだ。

 人間追い詰められた時に本性が出るから、「ママ」の本性は性悪の最低人間だ、と考えてしまうかもしれない。しかし、本当に追い詰められている状態でまず自分を優先するのはある意味当然である。人間には「生存本能」「自己保存本能」がある。「一番目」「二番目」の時、「ママ」はそれらが最大限働いている状況であり、他に対する一切の余裕などないまま必死に突っ走った状態だったのだろうと私は考えている。

 そして、そして突っ走った後は、身動きが取れなくなった状態だったのではないだろうか。

 前の記事で、「ママ」はずっと自暴自棄だったと書いたが、まさにそれである。

 

 このように書くと、

「こんな奴の味方するのか! この極悪人!」

「殺された子供を可哀想だと思わないのか!」

 と、お考えの方もおられるかもしれない。

 記事「その壱」の最後にて、実は少々、衝動的に自分の考えを書いている。

 実際のところ、私は「ママ」の味方では、ない。

 むしろ、「ママ」にとって見たら、私のような考えの人間が一番イヤなのではないかと考えている。

 確かに個人的に「ママ」に対して「哀れ」という感情は抱いているし、エンディング『いってらっしゃい』では、

「子供生まれてよかった。「ママ」が子供に「生まれてほしい」と思えるようになって良かった」

 と、今後の彼女を祝福し、同時に、これから彼女の行った「子殺し」に苦しむことになるのだろうと考えて、色々複雑というか、それでも「あの人」がいるから大丈夫と思いたいというか、絵にかいたような幸せは絶対に無理なのが分かるからこそ、これからを精いっぱい生きてほしいと思ったりもした。

 まあ、ぶっちゃけ泣いた。我ながらキモかったとは思う。

 同時に、彼女の行ったことに対して、「悪くない」などはみじんも考えていない。「その壱」の最後でも書いたが、「罪である」と考えている。

 「母親というフィルター」を通さず見るというのは、フィルターという「一個人、人格に対するクッション」を全く通さず本人を見るということであり、私はクッションなしで「ママ」を「ヒトゴロシ」と言っているわけである。

 フィルターを通すというのはある意味その個人をまともに見ていない一方、実は「ママ」の罪に対しても「母親」というクッションが入る。「母親というフィルター」、つまりそれぞれが考える「理想の母親像」あるいは「憎悪する母親観」などといった、「ママ」本人というよりは「母親という概念」に対して憤ったり嘆いたりしているという構図にもなりえるのではないだろうか?

 私は私と「ママ」との間に「母親という概念」を挟まず、直接的に「ママ」の行いに対して「罪」だと言っているわけで、一番「ママ」にとって逃げ道がない見方をしているわけである。

 また、「ママ」が「強姦の被害者」であるとも過去記事で書いてあるが、「「ママ」は犯罪の被害者だから許してほしい」と考えているわけでもない。

 とはいえ、そもそもの事の起こりが「強姦」という「犯罪」であり、その「被害者」となってしまったからこそ一連の悲劇は起こったということは留意してほしい、とは考えてしまってはいる。

 このあたり私自身の身勝手さが出ているとは思う。

 そして「ママ」側からしてみれば、自分がそもそも被害者であることに対して理解してくれているように見えるにもかかわらず、直接的に自分自身に「罪」を突き付けてくる存在は、ある意味「母親フィルター」を通してみてくる相手より恐ろしく思える可能性がある。

 あくまでも可能性でしかないことはご注意願いたい。

 ちなみに、あなたは自分が何か「罪」を犯した際、「何らかのフィルター」を通して、自分自身というよりはその「概念」をあてはめられて、自身の人格をある意味無視されて責められる方がラクだろうか? それとも、「フィルター」など一切なしに、直接的に責められる方がラクだろうか?

 私は……よく、わからない。おそらく、この質問に明確に答えられない人は多いと思う。

 

 『ママにあいたい』作中においては、かなり「フィルター」を通した人物判断がなされている。無論、それはほかの物語でも、現実でもそうなのだけれども。『ママにあいたい』の物語においては、実は「フィルター」の存在もそれなりに重要な視点かもしれないと考えている。

 などと書いたものの、私は私で、「ママ」に対して「母親」以外の全く別の「フィルター」を通してみているのは明確ではある。

 人間の思考、認識自体が根本的に「フィルター」であるようにも思う。

 

 ……というわけで、今回はこれで終わりたいと思います。

 ありがとうございます。お疲れ様でした。

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