人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

フリーゲーム『ママにあいたい』感想色々 その弐

 こんにちは。

 「野乃ノ 之」様制作フリーゲーム『ママにあいたい』の感想、二つ目を書かせていただこうと思います。よろしくお願いします。

 私が書いたため、暗い、痛い、と思うことも多いと思われます。

 また、生々しい表現を多用すると思われます。

 お読みいただく場合、ご了承願います。

※プレイしてからお読みください。ネタバレ配慮はしておりません。

 

  『ママにあいたい」感想リンク集です。

zaturon.hatenablog.jp

 

 興味がございましたらお読みください。

 では、始めさせていただきます。

 

 ※「五番目」と「六番目」を逆に書いていたので、書き直しました。

 紛らわしいことになり申し訳ありませんでした。

 

 今回は「二番目」について書かせていただこうと思う。

 

 さて、「二番目」は「きもい」が口癖となっているが、これは「ママ」に「きもい」と言われたからだと思われる。自分に使われた言葉を、「ママ」に絶望してから己の口癖として使用しているというのは、なかなかに自虐的である。

 「一番目」の話から考えると、もともと「きもい」の口癖は使っていなかったと私は考えている。使い始めたのは溺愛していた「三番目」が堕胎されてしまった時ではないだろうか。

「ウソでも「ママ」に愛されたかった」

 この言葉は結局、彼女がゲーム内においてまだ「ママ」を愛していて、己も愛されたいと考えているが故の言葉である。そうでなければあのように叫ぶこともないだろう。

 この叫びは「三番目」がいた部屋で、「三番目」について少し語られてからのモノである。

 「三番目」がいかに良い子であったかを語り、そしてそれをあっさり殺す「ママ」に対して怒りを向けている。

 彼女の中にあった「ママ」に対する理想が、「三番目」が堕胎されたことで完全に崩壊したのだろう。それでも彼女は結局、「ママ」に対する愛情から逃れられてはいない。それゆえの「きもい」の口癖である。

 「二番目」の中にあった「理想のママ」は壊れたが、それでも「愛するママ」は存在している。しかし、彼女が真に求めるのは「理想のママ」であり、自分たち全員を温かく迎えてくれる「優しいママ」である。

 しかし、「二番目」の「理想」と「現実」は乖離する。自分は生まれてすぐに殺され、「三番目」は堕胎されて生まれることもなかった。

 その乖離を埋めるのが「きもい」の口癖ではないだろうか。己と「ママ」を「きもい」という口癖でつなげるのである。

 己が「喪失」した対象との乖離を埋めるために同一化を図り、口調や動作、考えや生き方そのものまで「失った対象」と同じくしてしまう場合があるらしいが、「二番目」の口癖はそれの可能性がある。「ママに愛されたい」という「願望」と、「きもい」といわれ殺された「現実」との乖離を、「ママ」が自らに対して向けた言葉を口癖として使うことで埋めようとしているのである。無論、意図的に行っているわけではないだろう。彼女自身、「気が付いたら」こうなっていたのではないだろうか。

 それほどまでに「二番目」にとって「きもい」と言われたことが心に残っているという証拠でもあるが、それを口癖としているということは完全な「自虐」である。己の手首をカッターで切るのと変わらない、非情に痛ましい行為だ。

 

「あんな「ママ」に会わせるくらいなら、殺してあげようと思った」

 この言葉、彼女の境遇を考えるとある種の理解はできるのだが、非情に危険かつ身勝手な言葉である。

 殺して「あげる」。なんともすさまじい一言である。彼女は自分の行動を悔いて謝罪するが、それまでは間違いなく「殺してやった方が彼らは幸せに違いない」と考えていたのだろう。

 この考え方は、実はあるエンディングにおける「ママ」と共通する考え方である。自分の体が限界だから、せめて二人「一緒に」堕胎することを決めている。

 「二番目」もまた、二人「一緒に」殺そうと思った。口癖だけでなく、一か八かの極限状態における行動において、「二番目」は「ママ」と無意識に同じような選択をしている。

 この後のエンディングにおける「ママ」の選択は全く違ったものになるが、この選択の差は紙一重であり、結局のところ偶然でしかないのである。

 「二番目」は作中の行動から考えると、「ママ」との同一化がかなり進んでいる状態となっていたのではないだろうか。

 それは、「姉として約束は守る」と言って「四番目」をけしかけた行動にも表れている。実はこの時点で彼女にとって「三番目」より後の兄弟たちは、「三番目」のように愛する対象でなくなっているのだ。これは「ママ」が自分たちをあっさり殺してしまうと「二番目」が考えているからであり、彼女の「ママの子供」に対する扱いを決定している。

 ここで留意しておく必要があるのは、「二番目」が同一化していっているのは、「二番目の中に存在するママ」であり、実際の「ママ」ではないことである。実際の「ママ」と同じような行動をとるからといって、すべてにおいて生身の「ママ」と同じではないし、またなりようもない。あくまでも「二番目」の中で「二番目」が受け止めた「ママ」の言葉や行為を「二番目」なりに内面化した「二番目が考えたママ」なのだ。

 

 しかし、「二番目」はそれまでの自らの行為を「間違っている」という考えを叩きつけられることになった。

 「六番目」は「ママにあいたい」と言い続け、「五番目」と協力して突き進んでいく。「ママの声」を聞いても「あいたい」と言い続ける。

 その姿は、「ママの声」を聞いても笑顔を絶やすことがなかった「三番目」を思い出させたのではないだろうか。だからこそ、「六番目」の前に姿を現したのだろう。

 さらに、「六番目」は「三番目」から脳を受け取っているのである。「三番目」と同じく「ママの声」を聞いても折れず、その「三番目」から脳を受け取って知性を得た「六番目」は、彼女を溺愛していた「二番目」にとって「三番目」と同一の存在となったのかもしれない。

 そういう意味では、彼女の依存対象が「ママ」から「三番目と同一視する六番目」に変わっただけとも考えられる。

 しかしそれによって、「二番目」は一気に「ママ」への依存から脱却し、皆の先頭に立って指示を出す立場となる。自らが生まれる際の「ママの声」を聞いても彼女は止まることなく、とあるものが見えても「きもいのが見えた」と悪態をついただけで、激しい反応をすることなく落ち着いて行動を続けている。これは「ママ」と同一化し、「ママ」に依存していたころの「二番目」では不可能なことだろう。

 あの映像が見えた後の「二番目」と「四番目」の会話において、「二番目」は何となく遠慮がちのように思える。それは利用した罪悪感かもしれないし、約束を守れない後ろめたさかもしれない。個人的にはこの時、「二番目」は「四番目」に対して、言葉だけでなく実際に「姉として」「四番目」と接しているように思える。

 しかし、「四番目」は恐らく「二番目」の「姉として」という言葉を信用はしていなかった。それは「二番目」が約束をした際に「四番目」に対して「姉として」の感情を持っておらず、便利な道具として利用していることを彼なりに見抜いていたからだろう。

 

「優しいママに会いに行こう」

 この言葉は、選択肢によって誰が言うかが変わる。しかし、「一番目」も「二番目」も、この言葉とともに憎しみをぶつけてくる「四番目」と消えようとする。

 この時、「二番目」は「四番目」に対して利用できる駒ではなく、自分の愛する兄弟として接している。

「すべての責任を持つ」

 これもまた、「一番目」と「二番目」二人ともが言う言葉であるが、意味合いは実は変わる。

「一番目」にとっては「兄としての監督不行き届き」であるが、「二番目」は「主犯」である。

 言うなれば、「四番目」の憎しみをあおり、実際にカンシとして行動させ、後戻りできない状況にまで追い込んだのは「二番目」なのだ。

 だが、「四番目」を憎悪のままに行動させるわけにはいかないし、それは結局「四番目」自身を滅ぼすことになる。だからといって生半可なことでは止めようもない。

 だから「責任を負い」、「四番目」とともに身を投げたのだろう。「四番目」の憎悪を自分が受け止め、それ以上憎しみのままに行動することのないように。自分自身が犠牲となることで、誠意も示した。

 結局この行動は、「一番目」「二番目」ともに「四番目」にとっては無意味どころか、「身勝手」と解釈されたのだろうが。

 

 その「二番目」の父親であるが、私は「彼」であると考えている。

 「一番目」の父親は「彼の兄」だが、「二番目」に関しても「無理矢理」だったらしい。同じく「彼の兄」なのでは? と考える方も多いと思うし、そうであってもおかしくはない。

 では、私なりの根拠をいくつか書かせていただく。

 まず、「一番目」が言うには、「一番目」と「二番目」の血は完全一致ではない、とのことである。これだけなら、

「単に兄弟なら、完全一致じゃなくて当然だろう」

 で終わるのだが、

「「あの人」は「彼」とは違った。

 「あの人」は、お腹の子も愛すると言ってくれた」

 といった意味合いの「ママ」の言葉により、私は「二番目」の父親は「彼」だと考えた。

 

 「ママ」が「あの人」に出会った時点で、「五番目(と「六番目」)」を妊娠していたらしい。しかし、「あの人」はそんな「ママ」を支え、「お腹の子も愛する」と言ったとのことである。

 そして「彼」は、そんな「あの人」とは違う、と言われている。 

 私の考える筋書きはこうである。「ママ」が「彼の兄」に「強姦」されてから二年ほどたった後、「彼」は「ママ」が「彼の兄」に「強姦」された事実を知った。「彼」はそれを受け止めることができず、「ママ」の意志に反して「無理矢理」性交した。つまり「強姦」した、というものである。

 「強姦」された事実を知ったのが、「ママ」から打ち明けられたのか、「彼の兄」から教えられたのか、のどちらかは分からない。どちらもありうる。

 「ママ」は物語の最初の辺りで自分の腹の子に対し、

「出ていって! お前がいたら「あの人」に嫌われる!」

 と言っている。これはなぜだろうか?

 恐らくだが、「彼の兄」に「強姦」された事実によって「彼」に否定された過去があったのではないだろうか。

 とはいえ、単純に「別人の子供を身ごもっていれば嫌われる」という考え自体はおかしいものではない。「ママ」のような過去を持っていなかったとしても、この考え自体は不思議ではないのだ。

 だが、「「あの人」は「彼」とは違った」という言葉があり、さらに「お腹の子も愛すると言ってくれた」とある。

 つまり、「あの人」は「ママ」の過去を否定せず、そのまま受け入れたのである。そしてそんな「あの人」とはっきり「違う」と断定された「彼」は、受け入れることができなかったのだろう、と考えたのだ。

 この場合、「強姦」被害者である「ママ」に対してさらに「強姦」という暴力を行使するのはお門違いと言わざるを得ないが、「彼」は「彼の兄」に対して、その後どう接したのだろうか? また、「彼の兄」は「彼の兄」で、「ママ」を「強姦」したあと、どのように弟と接していたのだろう?

 もし、「彼の兄」が「彼」に「ママ」を「強姦」した事実を教えたと仮定した場合、どういう気持ちでそれを教えたというのだろうか?

 「彼」が「ママ」を「強姦」したのは「嫉妬」であり、それを被害者である「ママ」に向けた。「彼の兄」の「自身の強姦について弟に教える」行為もまた、ある種の「嫉妬」である可能性もある。この場合、「ママ」と「彼」の二人ともが「一緒に」「嫉妬」による攻撃対象になったのだろう。単純に反応を楽しむためというものだった可能性もあるが、二年たった後というのも気の長い話である。

 上記の「嫉妬の連鎖」は完全に想像ではあるが、「彼」と「彼の兄」の間には「ママ」に対する互いの裏切り行為により、何らかの確執が生まれていると考えているが、どうだろうか?

 

 「ママ」はとても「彼」を愛していた。それ故に、裏切られた事実はとてつもない衝撃となって「ママ」に襲い掛かってきたことだろう。

 愛するほどに、憎悪もまた深まる。「一番目」は何度も殴られ、「二番目」に至っては前を上回る残虐行為となっている。

 それはつまり、「ママ」の「彼」に対する「憎しみ」と「絶望」が、「彼の兄」よりもなお深く重いということになるのではないだろうか。

 それを子供に当たり散らすのは言語道断ではあるのだが、当時の「ママ」の絶望の叫びでもあった。

 「二番目」の妊娠を機に家族と離縁もしているとのことだが、こういった時こそ頼る、という行動をするのではなく、「どうしようもない状況だからこそ出ていく」という選択をしているのを考えるに、「ママ」は家族に対してよい感情を抱いていないどころか、やはり「激しく憎悪している」のではないだろうか。

 「その壱」で「ママ」は家族に虐待されていたのではないか、と考えた理由の一つである。もう一つは「四番目」であるが、これに関してはまたいずれ書かせていただく。とはいえ、予想がついている方も多かろう。

 信じる「彼の兄」と愛する「彼」に裏切られ、自分の家では虐待、そうでなくてもよい扱いを受けていなかったのなら、当時の「ママ」の心理状態はとても危険であったはずだ。

 その際の心情について、家族にあてた「紙とシャーペン」で書きなぐった手紙にある程度書かれているのだろうが、内容に関してはプレイヤーに示されない。だが、「紙とシャーペン」で書きなぐる、という行為に「ママ」の拒否的で攻撃的な心理状態を伺うことができないだろうか?

 また、こういった際のこの行為から、私は「一番目」の時点で「ママ」は中学生ではないか、とも考えた。「一番目」の時点で私の予想では14、5歳、その二年後ということなので単純に考えて、「二番目」の時点で16,7歳程度。

「二番目」に関する「ママの声」でも、「当時学生だった」とあり、個人的にはこのくらいが妥当ではないかと考えている。あくまでも個人的に、である。

 上記したような状況において、やはり「一番目」の時と同じように、「二番目」に対して、自分を現在のようなみじめな状況に陥れた要因に対する憎悪を転嫁したとしても不思議ではない。そもそも「彼」が自分を裏切らなければこのようなことにならなかったし、「彼の兄」が自分を「強姦」しなければ、やはりこうなってなどいなかった。家族などあてにできるものか。

 「二番目」はきっちりと成長して健康に生まれてきたようなので、その分「ママ」の栄養も自分に取り込んでいたということになる。つわりはなかったようだが、妊娠と出産で体質が変わったりすることもあるし、健康に生まれるということは出産の激痛も経験しなければならなかっただろう。一歩間違えれば、場合によっては根本的に何らかの異常によって死に至ることもあるので、医者などに一切かかっていなかったであろう「ママ」の綱渡り具合は相当なものであったはずである。

 この後の「ママ」の行動を見るに、「二番目」を殺した後完全に自暴自棄になってしまっている。いや、「二番目」を殺したという事実そのものも、そもそも「一番目」を殺したことも、すべて自暴自棄である。怒りや憎悪の感情というのは行動の原動力としてはかなりの力を発揮する場合が多いが、その目的を果たした途端燃え尽きて空っぽになってしまい、一切の行動がとれなくなる危険も秘めている。

 良い悪いに関係なく、ただ「ママ」は自分として存在するために激しい感情で無理矢理、何かしら動いているしかなかったのだろう。「子宮をとるためにお金を貯める」も、結局はそういう性質のものだ。それでも、「二番目」を殺した時点で自分の心を守るため、感情を動かさない無感動状態になっている。

「あんな残虐行為をしたのに、まだ自分を守りたいのか?」

 基本的に「母親」も人間なので、相手が子供であろうともまずは自分を守る行動を基本的に優先する。

 だからといって攻撃された方はたまったものではない。実際、「ママ」は子供たちから憎まれている。

 すべての行動が「ママ」にとっての「自傷行為」と言えるものである。そして、救いなどない。

 

 ……というところで、今回は終わらせていただきます。

 お疲れ様でした。

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