人生雑論ノート

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フリーゲーム『Witch's Heart(ウィッチズハート)』感想色々 その漆

 こんばんわ。

 本日も元気(?)に「BLUE☆STAR」様制作『Witch's Heart(ウィッチズハート)』感想を書いていこうと思います~。

 よろしくお願いしま~す。

※ネタバレ配慮なし。プレイしてからお願いします!

※プレイの推奨年齢は15歳以上。

 

 過去の感想はこちらから~

zaturon.hatenablog.jp では、はじめます~。

 

 さて今回で七回目。我ながらなかなかに長く書かせていただいている。ありがたいことである。

 今回は過去の記事でも何度か触れてきたヘイターについて書かせていただく。

「みんな、みんな、不幸になれ!」

「ココが地獄だ! 私が作った地獄だ!」

 このヘイターのことである。今までははっきりとした呼び名を使わなかったが、それではさすがにわかりにくいので彼女にも私なりの呼び名を使わせていただこう。

 「玩具」。では、今後は彼女は「玩具」と呼ばせていただく。

 

 さて、もし過去の記事を読んでいただいている方なら、私が「玩具」に対してどう考えているか、ある程度はご理解いただけてはいるだろう。

 彼女は自分のことを「不幸である」と考えている。不幸であるがゆえに、他人に対して攻撃的で、かつ常に見下している。明らかに自分より格上であろう「バラ」に対しても、「玩具」はバカにした態度をとっている。

 

 「自分は不幸だ!」と大声で叫び、自分と他人の不幸と比べ、自分の方が不幸であることに常に安堵している。そして他人も不幸になるべきだと考え、すべての存在の不幸を願い、そのためだけに行動している。

 自分がこの世で一番不幸でなければならない。彼女はそのように振舞っている。だから常に他人と不幸を比べて安堵するのだ。彼女の自意識は不幸であることでしか確立しえないからだ。不幸でない自分は自分でないからだ。

 不幸。不幸、とは何であろうか。

 私は「玩具」について考えた時、ふと思い浮かんだことがあったので、Twitterに投稿してみた。

  そう、彼女は永遠に不幸である。彼女自身がそう望んでいるからである。

 彼女は自分の不幸に陶酔している。不幸であることである種の「生きる力」を得ているのだ。

 「自分は不幸である」という意識は、そのまま全能感につながるのだ。彼女は生きているころからその傾向はあった。「自分は他のヤツとは違う、特別なんだ」と。

 「自分は不幸だ。だが自分は特別だ」という意識を持って、彼女は生きた。そのまま死んだ。

 彼女のこの思考は何ら特別なことはない。彼女の同胞にも、同じように考えている者がそれなりにいたかもしれない。しかし、彼女は自分の考え以外を知ることなどできないし、他者も同じくだ。他人が何を考えているかなんてわからない。自分をことさら特別視しているものが数多いたとして、そんなこと知りようもない。

 だから「玩具」は自分一人が「特別」だと思い込んでいたし、今も思い込んでいる。

 ヒトは不幸に酔う。しかし、幸福には酔わない。幸福に酔っているものがいたとしたら、それはその者自身が「自分は不幸だ」と思い込んでいることの裏返しだ。

 幸福な者は幸福を実感することはあり、感謝もするだろう。しかし、陶酔することはない。

 上記したが「幸不幸は「自分がいる位置はここではないか?」という感覚でしかない。尺度ではない」のだ。自分が幸福だと思えば幸福で、不幸だと思えば不幸だろう。

 異論はあると思われる。

「あいつは、どう考えても不幸だ」

「彼女は、どう見ても幸福だ」

 幸不幸の感覚は人によって違う、のだろう。自分では不幸だと思い込んでいるが、他人から見れば幸福にしか見えない。それは「幸不幸の感覚」の違いである。

 「尺度ではない」と書いたが、ある意味「感覚」もまた「尺度」となる。自分の立ち位置を基準としてみた場合の感覚を「尺度」とするのだ。故に、それにはバラつきがあり、物差しのように絶対的な基準あるものではない。

「自分は不幸だ! みんな不幸になれ!」

 自らの不幸に酔っているからこそ、「玩具」は高らかにそう叫ぶ。酔っぱらってそのまま全能感に浸る。自らの不幸を高らかにかざし、それによって「何をやってもよいのだ」という感覚に自ら陥る。「自分は不幸なのだから、他人を攻撃してもよい」という理論を無意識に振り上げ、それをそのまま武器となす。同時に、無敵の盾ともする。

 不幸! 不幸! 不幸!

 不幸であることこそが「玩具」の力だ。逆に言うと、不幸でなければ彼女にその全能性は宿らない。

 そう、「玩具」は不幸でなければならない。「不幸」なしでは生きてはいけない。もはや彼女は不幸であることによって与えられる全能感の虜である。その陶酔によって得られるものは、「不幸」でなければ決して得ることはできないのだ。

 「玩具」は「不幸中毒」と言って差し支えないだろう。だから彼女は不幸なのだ。

 ようするに、彼女は現在とてつもなく不幸であることで、この上ない幸福感を得ているのである。

 なんと矛盾することか。だが、ゲーム内での彼女を見ていただきたい。実に幸せそうに見えないだろうか?

「苦しめ、もっと苦しめ。私のために!」

 あの瞬間、「玩具」はとてつもなく幸福だっただろう。

 過去「普通の人」を見かけた時、彼女はとても嬉しそうにしていた。楽しそうにしていた。他人の不幸を見ることができるのは幸せだ。その不幸と自分の不幸を比べて、自分の方が不幸であると確信できるからだ。誰がなんと言おうと、彼女の中では常に自分が最も不幸である。彼女の「感覚尺度」は常に彼女自身が一番不幸だと断定する。不幸な誰かがいてくれれば、自分が不幸であると感じることができる。安心できる。

 不幸なモノが増えれば増えるほど、自分が最も不幸であることの優越感は増す。百の中で最も不幸、千の中で最も不幸……億、兆の中で、最も不幸。

 それのなんと幸せなことか!

 

「規則違反なんてバレなければいい」

 「玩具」は悪魔の規則を破っている。過去にも現在にも、ずっと規則を破り続けている。

 「バラ」を甘く見ているからだ。悪魔を統括する立場にある「バラ」を見下しているからだ。

 「玩具」はこれからもバレず、自分の思惑通りに事が進むと確信している。

 何もかもを見下して、自分が最も優れている、うまくできると考えるのは「不幸中毒」のなせる業かもしれない。

 だが、全能感はあくまでも「感覚」であって、真に全能になるわけではない。それこそ、より強大な力を持つモノは存在しているのだ。

 「バラ」「ラベンダー」たちは、強力な力を持つ悪魔である。そして、とてつもなく長い時間、存在している。

 はっきり言ってしまえば、「玩具」のような存在も、それこそ多く見てきたのではないだろうか?

 作中の人間たちの不幸、それを「バラ」は「どれも同じ」と言い放つ。今までにも多くの不幸を見てきたのだろう。地獄のヘイターたちだけでも相当なものである。また、「悪魔の契約」によって不幸になる人間も見てきたに違いない。

 不幸など、もうすでに見慣れているのだ。それこそ「玩具」の不幸とて、「バラ」にとってはほかの不幸と何ら変わりないことだろう。

 全能感によって「玩具」は恐れ知らずの行動力を発揮している。自身の暗い未来など、その前にあろうはずもない。どこまでも自分の好きなように突き進んでいくことができると確信している。

 繰り返すが、そんなものはしょせん自身の「感覚」でしかない。事実として全能であるわけではないのだ。彼女は冷静に、自分が敵対してしまっている相手の力量を見定めることを放棄している。

 なるほど「バラ」は「どこのどいつだ」と言い、「見つけたら百回くらい殺してやる」とも吐き出している。この言葉から、「まだ見つかっていない」と考えるだろう。

 しかし、本当に? 本当に「バラ」たち純正悪魔は何も知らないのだろうか?

 あんな目立つ場所で堂々と話をしているのは、なぜだ? 自らが知らない茶会をしっかり察知し、その場におらずして崩壊せしめた「バラ」である。「玩具」の行動を全く知らないとなぜ言えるのだろうか?

「不幸になるのが、お前たちでも構わない」

 「バラ」は言い放った。それはもうとても嬉しそうに、楽しそうに。

 これをわざわざ相手に教えた意味は何であろうか?

 この発言こそ「バラ」の断罪ではないだろうか。「玩具」と「兵器」はともに規則違反をしている。「格下に舐められる」ことなどとても許容できない「バラ」にとって、この二人は処罰対象である。規則違反そのものが「バラ」を侮った行動であるし、普段の態度からも明らかに「舐めている」ことがうかがえる。

 「玩具」は特に自分以外が見えていない。現在など、お気に入りの「化け物(?)」のために普段以上に暴走気味だろう。

 

「幸せになってほしいとは思っていない」

「堕ちてきてよ」

 これはつまり、自分が不幸であるということをより確固たるものとするのに、「化け物(?)」が最適であると考えたということだ。自らの所まで堕ちてきた「化け物(?)」を愛するということは、つまり「自らの不幸を愛する」ことである。

 不幸は愛でるものである。自分が選んだ不幸な者は愛しいペットである。

 あくまでも自分の不幸こそが最も不幸であることを前提に、他者の不幸を愛でるのである。

 もっとも、作中で示されているが「玩具」は愛を知らない。愛するとは何かを知らないし、愛されることが何かも知らない。想像すらできない。

 「兵器」は自らに与えられていたものがまがい物であったことを理解しつつも「愛を知っている」。そして、自分が相手に対して抱いた感情はまがい物でない愛である。

 知らないものを相手に与えることなどできはしない。「玩具」の愛はまがい物ですらない。

 今まで知らなくても、知ることはできる。だが、「玩具」は恐らく根本的にそれを知ることを拒否するだろう。「兵器」に「負けた」からだ。

「軽蔑するところだった」

 そういって嗤う「玩具」は、実際残念だっただろう。自分を負かした相手を見下すチャンスを逃したのだから。

 そう、自分に対して「愛」などというモノを語ってみせた「兵器」を、「玩具」は疎ましく思っているのではないだろうか。

 他のモノに対しては「不幸」で勝てる。しかし「兵器」に対しては、「愛」で負けた。

 不幸であることの全能感が、これで打ち消されたのだ。ほんの一時的にでも。

 だから、「兵器」に対して優位に立てる何かが欲しい。「兵器」は「大人しくなった」と思っているようだが、己を打ち負かした相手に対して反撃するために爪を研いでいるだけだ。だからこその、

「軽蔑するところだった」

 というセリフになるのである。

 もっとも、「兵器」にとって「玩具」から軽蔑されたとしても、特に痛くもかゆくもないだろう。「兵器」にとっては「玩具」という存在自体、取るに足らない存在だからだ。根本的に相手にしていない。する必要もない。一緒に遊んであげはするようだが、その程度である。

 しかし、「玩具」にとってはそうではない。おそらくかなり普段から意識しているだろう。だからこその「軽蔑」なのだ。

 「玩具」にとって、自分より強い存在は認められない。「愛」を語り、それで自分を打ち負かした「兵器」を、「玩具」は改めて見下したいのである。

 だから、「化け物(?)」を欲した。

 「愛」で自分は誰にも勝てない。でも、「不幸」なら勝てる。そして、それをより強化してくれるのが「化け物(?)」なのだ。

 「愛する者」のために繰り返す「化け物(?)」を「不幸」によって屈服させる。

 「愛」を「不幸」で踏みにじる。

 やはり不幸こそが一番強いのだ。つまり自分が一番強いのだ。自分が最も強いのだ。

 不幸は「玩具」のドレスであり、アクセサリーであり、王冠であり、玉座である。

 そのためならなんだってやる。「不幸」が一番であるために。自分が最も優れている感覚を得るために。

 

 感覚だけを得て、実際に踏みにじられるのは、誰になるのだろうか。

 

 というところで、今回は終わりますね~。

 お疲れ様でした~。

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