人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

ある一定年齢になったら「哲学書」は不要か? 私はそうは思わない!

 こんばんわ。

 昨日オーディオブックを聞いていて、「おいおい」と思うことをちょっとツイートしてみたのですが、そのことについて改めて書いてみようと思います。

 

  ではまず、問題のツイートをご覧ください。

 

 

  はい、ある意味これですべて語っている感じですね。

 ちなみに一番上の「改めまして~」というのは、まあ、こちらをご覧ください。

 そして笑ってください。

  自分で自分に「なにやってんねん!」とツッコミを入れたい。というか入れた。

 痛恨の一撃とはまさにこのこと。

 しかし正直、間違えちゃったツイート消しちゃったのは失敗でした。ネタにもなるから残しておけばよかった。とっさに「ぎゃは~!?」となってあわてて消しちゃったんですよ。実にもったいない。

 

 それでですね。これを読んでくださっておられる方々、どう思われますか?

 哲学書なんて読まなくてよいでしょうか?

 私はタイトルでズバリ答えていますし、ツイートでも答えていますが、「NO!」です。

 いや私もカントだのニーチェだの西田幾太郎だのを読みまくれとは言いません。

 しかし、こういう本を手に取ったことで得られた「何か」というのは、読んだ人によってはあったりなかったりします。

 私はちょっとだけ俗にいう「THE☆哲学書」を読んだことは一応あります。面白かったんですが、かなり難しいですよね。

 しかし、逆に言うと、難しいけど面白いんです。

 理解の仕方が明らかに間違えているかもしれない。たいして内容が頭に残らないかもしれない。

 いいじゃないですかそれで。そんなのどんな本でも同じですよ。

 

 また、そういった本が現代まで私たちが読めるようになって残っているという事実は、やはり無視できないことだと思います。

「こんな昔の意味不明のこと書いてある本が、今俺の手にあるなんてな」

 などという感傷に浸りながら、意味など解らずともとりあえず文字を眺めてページをめくっていく愉悦もあると思います。

 そういった体験が、案外後々響いてきたりします。

 

「人生とは何か。生きるとは何か。どう生きるべきか」

 そんなことはくだらないですか? 悩める若い人の、文字通りの若気の至りのくだらないことですか?

 そんなことはありません。生きていくうえで「哲学」が必要になる場面はあるでしょう。

 ツイートしましたが、「歴史」はとても大事です。「偉人伝」もたくさん読んだらとても良いと思います。

 しかし、「哲学書」は生きていくうえで、自分が進んでいく中で、働いている状況で、ビジネスにおいて、全く不要でしょうか?

 役に立たないものですか?

 「哲学書」においては、その中に書かれている「思想」そのものも無論、とても有意義なものです。

 しかし、同時に「思考」もものすごくちりばめられているというか、その文章構成、書き手が「名付け」た「思考形態」「世界の姿」「人間のあるべき姿」というそれそのものが、まさに「生きた思考」そのものであるはずです。

 昔のモノであったとしても、生々しくその書き手の「思考」がそこに保存されています。「思考」は書き手そのものでもあるはずです。

 「思考」が生まれる状況は、時代がかなり反映されるはず。その人の状況、環境などがその書き手の中でその他いろんなものと絶妙にブレンドされた結果が「哲学書」というモノになるのです。

 あ、時代によっては「文字が書ける」というのはいわゆる平民とかには無理なので、基本的に「地位」「富」に関しては上の方の人ばっかだと思いますけど。

 そもそも自分の考えを書きまくるっていう時点で、ある種のへんた……ゲフンゲフン!

 

 ま、ともあれ、「哲学書」というのは「歴史書」なみに価値のあるものですよと、改めて力説してみた次第です。

 ツイートにもありますが、これからの世の中、むしろそういうことに注力しなければならない時代に突入する可能性がありますからね。

 「人間力」ってなんだよ。意味わかんねんよ。という時に、とりあえず本を読みまくるという戦術をとる人が多くなると思います。その際、人が読まないであろうものを読みまくっていると、他の人とは違った方向にとんがることができるようになるかもしれません。

 とんがりすぎると刺さるので注意ですね。むしろ刺さりたい人はそれを極めるのが幸せなのかもしれませんが。

 

 ということで、このあたりで終わっておきましょう。

 お疲れ様でした~。