人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

機械と人間の違い・機械の持っている「名前」に個性はないが、人間の持つ「名前」の意味は個々で違う

 こんばんわ。

 今日本を読んでいたら「ぴきーん!」ときたので、とりあえず思ったままに「ダダダ!」とキーボードを打ちまくりました。

 いつもとかなり雰囲気が違います。

 ちなみに読んでいた本は『創造的人間』(湯川秀樹著)です。

 

 まず今回の記事の前提となっている「名前論」(自分でテキトーに命名)の一連の記事です。

 うっとうしい人はぶっ飛ばしてください。全部で四つです。

 一応カテゴリーに「名前」とはつけてます。

zaturon.hatenablog.jp
zaturon.hatenablog.jp

zaturon.hatenablog.jp

zaturon.hatenablog.jp

 

 機械が人間のように思考するようになるという考えがあるが、それはどうだろうか?

 機械は打ち込まれたデータをもとに「思考」していくことになるが、その思考のもとになるデータの大元、「名前」は結局のところ「人間個々の個性」がはぶかれた状態モノでしかない。

 人間は同じ言葉を使っているようで、実は内容が全く違うことが往々にしてある。

 人間の持つ「名前」は、己自身の実体験、己が選び取った経験と、本や映画などの疑似体験の集大成だ。

 同じものを見て同じ本を読んで同じものを食べても、全員が同じ反応をすることがない。

 幼いころからの、それこそ赤子のころからの経験、かけられた言葉にも大いに違いがある。

 

 まだ言葉を習得していない状態で、親から愛情いっぱいに「あなたなんか大っ嫌いよ」と言われ続ければ、その赤子にとっての愛の言葉は「大っ嫌い」である。

 そしてその赤子が成長した時、愛する人にかける言葉は「大っ嫌い」になるかもしれない。

 無論、成長する過程で自分の思っている「大っ嫌い」と自分以外の人の「大っ嫌い」が正反対であることは理解するだろう。

 しかし、その人物が愛情をこめて掛けられ続けた言葉は間違いなく「大っ嫌い」であるのなら、彼にとっての愛の「名前」は「大っ嫌い」なのは間違いない。

 彼にとっての「大っ嫌い」が他人の言葉では「大好き」であるならば、彼にとって他人の言葉は私たちにとっての「外国語」と同義だろう。

 いや、それよりもたちが悪いかもしれない。

 

 あくまでも個人的な考えだが、「名前」はもともと「意志疎通」のためのモノである。より高度な「意志疎通」を欲して「言語」という「名前」を人間は創った。

 それによってより高度な「思考」を可能とし、その「思考」をもってより複雑な「意志疎通」もまた可能というサイクルがつくられたのではないかと考えている。

 「思考」の根本は「意志疎通」である。自分一人であるならばそもそも「思考」の必要がないのだ。

 さて、この場合上記の人物にとって「意志疎通」はなかなかに困難なこととなろう。「言葉が通じない」といった状態である。皆に合わせた「意志疎通」をしたければ、自分の持つ愛の言葉「大っ嫌い」を「大好き」に入れ替えて思考せねばなるまい。

 外国語を自由に扱える人なら「その程度問題ない」と思うかもしれない。しかし、基本的な言語が同じでほんの一部だけ違う状態であるなら、恐らくかなり骨が折れるのではないだろうか?

 

 しかし考えてみてほしい。それぞれが普段発している言葉は、本当にまったく同じ意味だろうか?

 それぞれの体験などどれも違う。そもそも「色」に関しては、実は個々人で見え方がかなり違うという話もあるではないか。誰かが言った「赤」が自分にとっての「赤」と同じだろうか?

 「ケーキ」と聞いて「甘そう」と思う人もいる。だが、この言葉に込められた意味合いはみな同じだろうか? 甘いものが好きな人は肯定的に、嫌いは人は苦々しく考えるかもしれない。

 「ケーキ」と聞いて「ショートケーキ」を思い浮かべる人もいるかもしれないし、「チーズケーキ」や「チョコレートケーキ」を思い浮かべる人もいる。

 「ケーキ」という一つの名前から連想されるものはあまりにも多岐にわたる。感情、ケーキの種類、自分が食べた記憶など様々だ。あるいは、大好きな人と食べたという過去から、その人物が真っ先に思い浮かぶかもしれない。

 連想の話になっているが、連想というのも「名前」の一種であろう。自分の中で「ケーキ」というモノに対してつけた「名前」である。無意識かそうでないかは分からないが、そうやって人間は「名付け」を行っていっていると考えられる。

 人間は新たな名前を「創る」一方で、自分だけの「名前」をそれぞれのモノに付けていっているのだ。

 

「同じ日本語のはずなのに」

 こういう言葉を思い浮かべたことはないか?

 だが何もおかしなことなどない。それぞれの体験、経験、所有物、何もかもが違う人と持っている「言語」が同じわけがない。それらによってそれぞれの「意味」が何もかも実は変わってくるはずだ。「意味」は「名前」だ。

 それぞれの「名前」は全く違う。同じに見えてまったく違うものである。

 

 しかし、だからこそ人間は「言語」による「意志疎通」のために「思考」をする必要性が出てくる。

 どうすれば相手に伝わるのか? これは恐らく大昔から考えれて続けてきた普遍的な試みである。

 相手にいかに伝えるか? どうやって? そのために新たに生み出された「名前」もあるはずだ。

 技術も進歩したし、それによってますます「思考」が鍛えられていく。

 

 だが「機械」に、これらの過程があるだろうか?

 太古より苦心して「人間」は現在の「思考」「言語」を得た。その過程において試行錯誤も繰り返されただろうし、切り捨てられたものもある。無駄としか思えないのに残っているものもあるかもしれない。

 そういった紆余曲折を経ての現在の「人間」であり、「現代」である。

 だが、「機械」にはそんなものはない。個々の主張、経験や立場の違いによる「名前」の持つ「意味」の差を埋めるという、多くの人間が今も昔も経験している「ズレ」にともなう「思考」などない。

 この「ズレ」に多くの人間は苦しみ、それ故に「意志疎通」に苦心し「思考」を絶やすことなく続けたのだ。それによってまた「ズレ」が発生し「意志疎通」のための「思考」を繰り返す。

 「機械」にそんなものがあるだろうか? 残念ながら私自身そういった物に詳しくない、どころか全く知らないのだが、実際どうだろうか?

 しかし、上記したような「個々人のズレ」など機械にあるとはやはり思えないのだ。

 その「ズレ」ゆえの「思考」の必要性がない機械に、「人間」のような「苦労」ゆえの「思考」はないと思われる。

 

 逆に、人間がなぜ「機械のような無駄のない思考」を得ることがなかったのか。

 その答えは「個々人のズレ」ではないだろうか?

  個々の持つ「名前のズレ」ゆえに、同じ「名前」に対して同じように反応できない、というのが答えではないだろうか?

 そう、「人間」には「想像力」があるが、「機械」にはないとされる。

 当然だろう。人間は「ズレ」を「想像力」で補填する必要性がきっとあったのだ。足りない部分を補う必要性があった。それを可能としたのが「想像力」なのだ。そのために必要となった能力なのだ。

 「機械のように無駄なく合理的にできない」と嘆く人もいるようだが、だからこそ人間は「現代」を作り上げることができたのだと考える。

 そう考えると、人間の真骨頂は「個々人のズレ」なのだろうか。

 「名付け」によって「意志疎通」を可能とし、「ズレ」があるゆえに「思考」がより複雑になっていった、ということかもしれない。

 相手が知らないことを説明するのは大変なのだ。曲解されることもある。理解してくれない時もある。納得してくれない場合もある。

 「現代の人間」を作り上げた個々の要素は、考えていくとかなり面白いのではないだろうか?

 そしてそれらが「機械」にはないように思われるが、どうだろうか?

 

 ……というところで、今回はここまでとさせていただきます。

 お疲れ様でした~。