人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

「名前論」・ある程度まで行くと「意志疎通」よりも「思考」の方が先に来て、他の物を引っ張っていく段階になっていく

 こんばんわ。

 昨日の記事に『ある程度まで行くと「意志疎通」よりも「思考」の方が先に来て、他の物を引っ張っていく段階になっていくっぽい』と書いたのですが、そのあたりダラダラ書いていってみようと思います。

 あ、「名前論」とかなんかカッコつけてる感じですが、分かりやすさ重視です。それだけです。

 

  まず、昨日の記事はこちら。

zaturon.hatenablog.jp

 この記事の続きとなりますので、読んでないと分かりにくいかもしれません。

 

 「言語」はまず「意志疎通」のためのツールであり、そのために「思考」する。

 「意志疎通」のための「名前」レパートリーは増えていき、それに伴い「思考」もより高度に複雑になっていき、体系化されていく。

 ある一定の水準まで来ると「思考」が先行するようになります。「意志疎通」における「言語」を磨く必要性がなくなると思われるからです。その役目を果たせるだけの「名前」は十分に増え、体系化されているはずですから。

 その結果の一つが「本」、つまり「文字による記録媒体」だと考えます。

 人類は自分たちが生み出し続けた「名前の海」に簡単にアクセスする技術も創り上げてしまったわけですね。

 

 人間が存在し続ける限り「名前」もまた無限生産され続けるわけですが、それによって「名前の海」もまた豊かになっていくわけですね。

 広く深くなっていく。同時に上記ツイートでは「山」とも書いてます。

「イヤどっちだよ?」

 「おぼれる」という表現からは「海」を連想しますが、積みあがって巨大になっていくものの象徴としては「山」の方が分かりやすい。

 そして、海から山へ、そしてまた海へのサイクル自体は普通に起こっていることなのでイメージしやすいかと思います。私はそのあたりがなんとなく思い浮かんだので、それをとりあえずツイートしてみました。

  名前が生み出されていくサイクルを自然の水の循環とちょっと重ねた感じになってます。自然のサイクルと違うのは、その規模が繰り返すほどに大きくなっていくことかな。

 でもさすがにすべての「名前」が残るわけでなく、消えていって忘れられるものだってもちろん出てくるわけです。

 

 が、人間、宝探しみたいなものが大好きです。

 やれ電子だやれ素粒子だとか言って「そんなちっこいモンを?」というモノを調べたり、お空のお星さまに思いを馳せてデッカイ望遠鏡造ったり宇宙にモノ飛ばしてみたりなど、好奇心の塊です。

 そしてそういう活動で見つけたものや得られた知見などはもれなく「名付け」られるわけです。

 そんな人間は消えた「名前」探しにも余念がありません。考古学とか歴史学だとか、昔のモノコトに思考を飛ばし、必死に調べます。

 昔の名前軍が復活し、それらに対して「現代」からみた「名前」をまた付けたりして分類するわけですね。

 

 「名前」の増えていく様に限度なんかないぜ。人間は「名付け」の天才だからな。

 

 そういう「知的活動」が人間の本分ともいえるわけです。「名付け」ることができるがゆえに「人間」足りうるのなら、「名付け」をやめた時点で「人間やめる」ことにもなるわけです。

 つまり「知的活動」の放棄。人間は絶対にしないであろうことですね。

『そして「名付け」は加速する』

 

 「本」は時代が進めば増えるわけです。「意志疎通」から始まり「思考」を進化させ、さらにそれを体系化し「知識」として蓄えられていく。

 この流れはいったん出来ると止まるなどありえないわけです。どんどんアクセル全開です。スーパー急流すべりです。山から海へ行って、海から大量の荷物持って帰ってきてそれを抱えてまたダイブする。重さでどんどん加速する。

 あるいは「雪だるま式」というやつかもしれません。こっちの方が分かりやすい?

 

 そうやって「増やし」て「積んで」いって「分類」して、体系化された「知識」として確立されていく。それによってまた同じ流れができていくわけです。

 それが人間の「進化」と言えるのではないでしょうか?

 

 という感じで、今回はここまでで。

 お疲れ様でした~。