人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

「親である」ことでしか子供と接することができない親の人は苦しいかも?

 こんばんわ。

 今日はちょっと思ったことを書いてみますね。

 「親である」という事実だけで子供と接するのは、あまりよくないのでは? という個人的な考えです。

 ちなみに、私は人から良く「キツイ」「厳しい」と言われる人です。

 

  「親である」以上、「親として」子供と接するのは当たり前じゃないのか?

 こう考える方がほとんどですし、それが間違えているとは思っておりませんよ?

 でも、「親である」ことだけで子供と接するというのは、子供にとって苦しいものかもしれないよ、ということです。

 

 人間関係において、大事なことってなんでしょうか?

 人によってきっといろいろ考えがあると思います。

 しかし、「親子」となると、ちょっと事情が違うぞ? となってしまいがちですね。

 「親子」である以上「親子」としての人間関係を築くのは当たり前ですが、本当にそれだけでしょうか?

 親も子もそれぞれ「自分じゃない」他人同士であることは意識していますか?

 もちろん、子供が最初から自分自身の考えを持ってしっかりと行動できるかというとできませんが、それでも「自分と他人」という事実自体は一応意識しておいた方がいいかもしれません。

 

 あくまでも個人的な意見ですが、「親子である」ことに甘えてしまっている場合はありませんか?

 「自分はあの子の親だ!」と考え、「親子だから」「家族だから」という考えだけで接していると、自分と他人の境界があいまいになってしまうかもしれません。

 私の場合、自分の経験と照らし合わせて「血に甘えている」と解釈しています。

 

「家族でも他人」

「いいや、家族は他人じゃない」

 実際に合った会話ですが、これ、かみ合っていないんですよ。

 「家族でも他人」であるとは、家族であってもそれぞれが独立した人間だから、家族は同じでないといけないみたいな考えはよくないよ、というものです。

 「家族は他人じゃない」は、上記の「家族でも他人」の言葉の意図をどこまでくんだのか一切不明ですが、真っ向から否定しています。

 私としては正直恐ろしく感じてしまうのですよ。「家族は他人じゃない」ということは「家族」は「同じ」でないといけないという考えを持ち、「違い」を認めないということでもあります。

 

 「家族」ゆえの深いコミュニケーションは利点かもしれませんが、「同調圧力」がどんどん親から子へとかけられると、子供が「自我」を持つのが難しくなる気がします。

 自分の意見を持てず、「親」の意見を自分の意見としてしまう。結局自分で考えて吟味した内容でない場合もあり、「自分で試行する」「チャレンジ」といった能力の妨げになる可能性があるのではと危惧します。

 

 ちなみに、「家族でない他人」に対しての接し方と「家族」への接し方はやっぱり違いますよね? 他人に対して上記のように接する場合は「家族」に対してよりは少ないのではないか、と考えています。

 このあたりが記事の上の方で書かせていただきました「血に甘える」ではないかなということです。

 「自分は親だ」という意識だけで接している場合、つまり「血」のみに頼って子供と接していた場合、上記のようになりやすいのではと考えます。

 

 そして、子供という存在は「血に甘えた」親の影響でまったく親に逆らわなくなる場合もありますが、子供の世界は「家族」だけではないです。

 社会に出て色んな人との付き合いができますと、それと自分の状況を照らし合わせて考えることができるようになるかもしれません。

 場合によっては「血に甘えた」親に対し、「自分がまっとうな人間として扱われていない!」と考え、親から離れていくということにつながることになるということではと考えます。

 この場合、つらくなるの「親」の方です。今まで「家族だから」と「甘えて」いたことの付けを払うことになる、などというのは恐らくとても「酷い」考え方でしょう。

 「親」という人種に真っ向からケンカ売ってますが、しかしその「親」の方は「親」でしかないわけではないはずです。

 「親」としてではない自分があると思います。

「自分は親だ」

「家族は他人じゃない」

 これって結局、自分自身を追い詰めてしまっている気がします。

 俗にいう「世間」というものが「「親」とはこうあるべし!」という「幻想」を「親」に対して求めているというのも影響していそうですね。

『「親」である以上、「親」としてきちんとせねば!』

 そんな意識があるのだと思います。でも、それに対してだけ必死であろうとすると、きっとつらいです。

 また「親」であることに括りすぎるとかえって「家族」「子ども」への対応がその考えに縛られた範囲に絞られてしまい、柔軟な対応を奪う気もします。

 

 世には「家事代行」「ベビーシッター」などという素晴らしいサービスがたくさんありますが、それらを利用できる人ばかりではないとも思います。

 とりあえず、「ある程度肩の力を抜く」ことくらいは許されるようになっていってもよさそうですよね。

 とはいえ、「親は何やってたんだ!」と言われてしまうので、「気を抜く」ことすら許されないとは思いますが。

 あと、年齢的にそれが子供にとって致命傷である場合もありますので、そのあたりも要注意で。このあたりきっとつらいはず。

 とはいえ、子供はいつまでも「低年齢」ではないので、そのあたりも留意した方がよいかとも思いますよ。

 

 色んな考えがありますが、こんな考えもあるんだよとだけ。

 それでは、おやすみなさ~い。