人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

プロティノス著『エネアデス』特有の考えではないけれど

 こんばんわ。

 ちょっと前にプロティノス著『エネアデス』を読んでいると書かせていただきました。

 

zaturon.hatenablog.jp

 

 「一神教的だなあ」という感想を抱いたのですが、ほかにもちょっと思ったことが。

 書いてみますね。

 

  肉体は「いらない」もの。なんかそういう考え方みたいです。

 あくまでも大切なのは「魂」であり、それを照らす役割を持つ「知性」であり、その大元である「一者」である、ということらしいです。

 思いっきり違うかもしれませんが、要するにどれも「物理的でない」ものなのです。

 で、人は肉体を超えてそういった「非物理的」な存在に到達するのが至高なんだぜ、ということを書いてあるっぽいです。

 大切な人の肉体的な「死」は悲しみにあらず。彼らは「知性界」で生きるのだ、みたいなことらしいので、子供が死んで半狂乱になった人に対して怒る、とかいう感じらしいですよ。

 

 いや、大切な人が「死」んだらそら悲しいやろ、と考える凡人な私ですが、このような思想においては「肉体は魂の牢獄」みたいなとこまで行っちゃったりする場合もあるんですよ、この手の思想。

 人間が目指すべきは「一者」に近い「知性界」であり、肉体にこだわらない。仕方がないからある程度のメンテナンスはするけどもさ。

 こんな感じで、わりと「物理的」な肉体を最低ランクに置きますよね。これなんででしょう?

 

 ダンテの『神曲』を読んだ時、地獄とか、地獄じゃないけどそんないいところでもない場所には、一目見て「誰々」ということが分かったんですよ。でも、どんどん進んでいって、とても「善い」場所についた時、そこにいた「もの」はこれといったはっきりした形は持っていないような描写がされていたような気がします。

 ちなみに、「救世主」が生まれる以前に生まれちゃった人は、ソクラテスプラトンアリストテレス他賢人と呼ばれる人たちでさえ、「原罪」があるから「善い」場所に行けないそうです。

 結構シビア。

 

 「善い」生き方とか、とにかく「善い」ということを必死こいて追及しているような感じもするんですよ。そのために肉体捨てて「知性界」に行かないととか、そういうことを論じているわけですが。

 楽しくないなあ、この生き方。そう思います。

 私、崇高な生き方とか善良とか程遠い人ですね。分かり切ってる。

 「今」の楽しみとか、縁とか全部切り捨てて、ただひたすらに「善い場所」に行くためだけに生きて、そのことだけ考えて、そうやって死んでいく。

 子供が死んで悲しんでいる人に、怒る。今こんなことしたら周りからの反応がどうなることやらですね。

 

 あのあたりの地域性と言いますか、避けて通れないとある存在がありますね。

 そういったものがあの地域の「思想」に凄く関係しているのだなあと、思った次第です。

 プロティノスはおおよそ205年くらいから270年くらいに生きたらしいです。紀元前じゃないですよ。

 つまりはそういうことですね。おそらくですが。

 

 では、特にこれといった結論は出ませんでしたが、この辺で。

 おやすみなさ~い。