人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

私は「理解」について知らないということを知りませんでした。

 こんばんわ。

 

 以前、モンテーニュ著『エセー』を読んだと書かせていただきました。

 その時に、「記憶」より「理解」が大事っぽいことが書いてあった、みたいなことをちょっろっと書いたのですが、しばらくして思ったんです。

 

「そもそも「理解」ってなんぞ?」

 

※いろいろグダッた挙句、着地点が反則地域ですよ。

 

 「理解」という言葉はいろんな場面で使われますし、私も自分が使ったりすることもありますが、改めて考えるとどういうものなんだろうか、と思ったわけです。

 こういう時にご登場いただくのがググる先生。先生のお力をお借りして、goo辞書にたどり着きました。ありがとうございます。

 

 で、goo辞書の内容ですが、

 物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。「理解が早い」

  1.  他人の気持ちや立場を察すること。「彼の苦境を理解する」

  1.  「了解」に同じ。

 だそうですよ。

 

 1番の内容は「自分自身」についてで、2番は「相手ありき」の内容ですね。

 3番はとりあえず横に置いておきましょう。調べてはみたけどそこまで行くとちょっと論点ずれる気がします。

 とりあえず、ディルタイ哲学ってなんやねん。またわからないことが増えました。今度調べてみようかな。

 

 で、「理解」についてですが、とりあえずテキトーに書いていってみましょう。ダラダラと。

 

 1番の前半部分ですが、「あたりまえのこと」がわかっていること、と解釈していいのかな?

 あ、「解釈」ってなんだよと突っ込まれそうですね、これ。考え出したらきりがないですね。

 道理、筋道、これらに付随せしてくる言葉が「理」となっていました。と言いますか、この三つの言葉でグルングルン回っている感じでした。言葉って調べていくと同じところ回り続けることありますよね。

 単に調べ方がへたっぴなんじゃい、というのは突っ込みOKです。「ん?」と思ったことに対してすぐにツッコめるって素敵スキルだと思います。

 

 「わかる」というのも調べてると「理解」「了解」が出てくるのはまあわかってました。これは最終的にはフィーリングでいくしかないんかいとか思いつつ、とりあえずもうちょっと書いていきます。

 

 「あたりまえのこと」がわかっている、というのが「じゃあどういう状況なんだよ」と考えると、「なんだっけ?」になるのは私の頭が悪いからなんですかねえ?

 その通りだよ、という突っ込みが聞こえます。ふふふ……。

 「あたりまえのこと」という言葉に対する定義がむつかしいですよねこの場合。

 以前「普通」について個人的に思ったことに対する記事を書かせていただきましたが、この「あたりまえのこと」ってこの記事における「普通」と同じと解釈OKなんでしょうか? 全然違う?

 zaturon.hatenablog.jp

 あ、なんか違う気がしてきました。読んでくださった方もきっと、

「ちがうわい!」

 と、心からシャウトしてくださると信じています。勝手に。

 うん、そういうことじゃな~い。

 

 「道筋」とか「道理」とか、いかにもな言葉がありましたが、「決まり切ったこと」とか「そうあるべきこと」とか……わ、分からなくなってきた。

 道なんてあっさり違う道見つかるし、そもそも「道がないなら作ればいいじゃない」と切り開いて整えて石やらアスファルトやら何やらで仕上げてって人間いくらでもしますがな。

 かつては「天動説」が「決まり切ったこと」だった場所時代があったけど、それも覆ってますし。

 「あたりまえ」「そうあるべき」「決まり切ったこと」をぶち破ってアメリカ大陸発見されちゃってんじゃないか~。

 「理解」について考えようとしていたはずがどんどんずれていってますが、「理解」の定義がそのあたりにどうしても引っかかってしまうっぽいんです。

「「理解」ってなんだっけ?」

 という素朴な疑問が変な方向へ行ってしまう! 私のせいですそれ以外にないね!

 

 そうえば以前、「言語」は「名前」であるという考えをしたためた記事を書かせていただきました。

 zaturon.hatenablog.jp

 「言語」は名前。つまり「理解」という「言葉」は名前。

 で、「名前を付ける」=「意味付け」と解釈したわけですが、結局「意味付け」って、自分の中でするしかないことなんですよね?

  生まれてすぐの子供は「言語」を理解していないけど、成長する中で「言語」を習得していくといわれています。そんなことを聞いた気がします~。

 

 で、「言語を習得する」ってなによ?

 個人的に思うのは、周囲の音を聞きながら、その状況と照らし合わせて「この目の前にあるものはAというものなんだ」と「名前」を「自分の中で」つけていく作業なんじゃないかな? と思ったわけです。

 自分に話しかけられている状況で「自分はzaturon」と意味付けしていく作業を、いろいろほかにも繰り返し続けるのがたぶん「言語を習得する」ということ、ですかね?

 でも結局、その最終的な材料は自分の中にしかなかったりします。その時自分が何考えて、何見て、どう解釈するかなんて誰がコントロールできますかという話になってしまうわけです。

 

 何が言いたいかというと、結局「言葉」は最終的にはフィーリングよねってことです。

「おい、身も蓋もねえじゃねえか!」

 だって私の頭でたどり着いた結論がそれだったんだもの。自分の中にあるものでしか「名前を付ける」なんてできないんだもの。「意味付け」する材料は「今」自分が持っている「名前群」でしかないんだもの。

 

「で? 「理解」については?」

 ぶっちゃけると、「理解」という言葉に対する「自分のフィーリング」です。

 うん。サイアクですね! 

 「理解」について、いくら「言葉」をつくそうが、つまり「名前」を駆使しようが、私がラベリングした「理解」とほかの方がラベリングした「理解」は多分違うよねっていう話ですね。

 

 わかってますそういうことじゃないって。「わかって」るんです「本当」です!

 

 なんだか、途中でいろいろぶん投げてしまった気がしますが、ひとまずここで置いておくことにします。

 タイトル詐欺にもほどがある。せめて読んだ方が「ブフフ!」って感じで笑うことができたことを祈るだけです。

 では、読んでくださった方、お付き合いいただきありがとうございました!

 おやすみなさい!