人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

「親は必死」という言葉は、子供側の必死さを全否定されているような気がする

 こんにちは。

 前に書いた記事を書き終えてからしばらくして、ふと思ったこと。

 自分のダメさ加減を書くに当たり、親のことを書いたのですが、それから考えたことです。

 ぶっちゃけ、タイトルで全て語っていますけどね! 以下蛇足。

 自分の経験体験を女々しく書きなぐってます。

 

 親のことを人に言うと、必ず言われるのが、

「親は必死です」

 

 まあ、分かって、いなかったんですけどね、言われた時は。

 親は親であって、親でしかなくて、それをある意味一人の人間としてみるのは大変です。

 で、それは子供側だけの問題じゃないんですよ。親のほうが子供側に「親」をものすごく押し付けてくる。

 親だ、家族だ、だから一緒だ、同じだ。

 

 親の価値観が子供の価値観になり、親の常識が子供の常識になる。

 私もそうでしたし、それ自体はおかしくないです。近くにいいる大人、しかも育ててくれている人なら、真似しようとかいう意識なんて必要なく、ただそれを見て吸収します。

 基本的に動物はそうであるというだけ。特別なことじゃないです。

 しかし、必要以上に同化させようとしてくる場合があります。

 

 学ばせるのではなく、同化させる。自分と全く同じにする。同じ価値観を子供と共有したい親心なんでしょうけど、それをされると子供側は辛くなります。

 自分の意見、考え、意志を持てない。持って行動したとしても、押しつぶされる。

 私が自分で見て決めようとしたことに、必ず口を出してきて、最終的には否決されます。で、親は自分の考え、意見を通す。

 

 自分で考えろ。よく言われた言葉です。

 自分で考えて、よっしゃこれでいいんだ! と思ったことは、すべて切って捨てられました。

 端的に言って、どうしろと言っているのだ、と。

 

 結果的に、自分で考えることを放棄した人間になりました。思考力ゼロ。いつも生気がなくてボーッとしてる。

 さらに、なにもしなくなりました。掃除も片付けも、親がやる。自分でやってたら絶対に文句言われるので。

 よし、土曜日だし、チャッと部屋を掃除機かけるか! で、掃除機をぱぱっとかけ、終わった終ったと漫画を読んでいたら、

「たった5分しかかけていないじゃないか! お前のお部屋はちゃんとかけたら10分はかかる!」

 やりなおせ、と言われました。

 自分のペースで掃除機かけてたら、絨毯に絡まったそこそこの量の髪の毛を取り、思い切りひっぱたかれたりもしました。

「普段からちゃんと掃除をしていないからこんなことになるんだ! 絨毯の髪の毛が全部なくなるまで掃除をやめるな!」

 泣きながら掃除機かけましたよ。そこまで怒るところなのか。

 記憶って補正がかかるので、大した髪の量というわけでも多分なかったかと思います。絨毯に髪が絡まるのはある意味運命ですし。掃除機にだって能力の限界があるし。

 

 で、掃除も片付けもこんな感じで自分でしなくなりました。やったところで怒られるのが確定しているのなら、やらないで怒られたほうがマシなんです。

 やっても怒られる、やらなくても怒られる、だったらやらないで怒られたほうが、余計な体力気力を消費しなくてすむわけです。

 

 自分で考えて、その考えを否定される。言われたことをやれば必ず怒られるか、そうでなくても文句を言われる。

 結果として、思考停止で何もしない人間になり、それはそれで怒られたり一方的に嘆かれたりするわけですが。

 

 親は必死。

 そうだったんだろうとは思いますけど。必死だったんだろうことは明白なんでしょうけど。

 私が親を否定し、文句をいうのは、そんなにおかしなことなのでしょうかね?

 私は私なりに、必死に生きてきました。自殺未遂だってして、それでも今まで生きてきて、そしてこれからも生きていくわけです。

 親に対する否定って、ある意味必要なことじゃないですか? 自分と親を不可分と無意識に考え、自己の人格をろくに確立できないよりは、否定からの自己肯定、それによる自己確立と、自己再生への道をたどるのは自然なことだと思ってます。

 私は今ようやっとその段階。実家にいた頃は、口では必死で否定し続けていても、結局は親にべったりでした。親の考えを自分の考えとし、親を中心に考え、進路も就職先も親が気に入るところを選ぶ。

 

 一人暮らしを始めるときも、親の圧力がかかり邪魔をされながら、必死に物件を探し入居しました。

 そして、その入居先に物件を見て、親は不機嫌そうに文句を言いまくり、隣の方が聞いている可能性があるにも関わらず、「そんなこと言わないでくれないか!」と必死に言っているのに文句をやめませんでした。

 自分の所有物が、自分の意志を持って違うところに行くのが許せないんだろうな、と私は考えました。

 

 私が親に対して思っていること。

 親は私を、自分の好きにできる道具で、自分の好きに遊んでいいお人形で、好きに当たり散らしてストレス発散していいサンドバック扱いしてる、です。

 これを人に言うと、そこまでは親御さんは考えていないだろうと言われましたが、私はこう返しました。

「実際に親がそう考えているかいないかは問題じゃない。重要なのは、私がそう考えていることだ」

 事実がどうであれ、私はそう考えているわけです。私がそう考えるのは、結局は今までの経験体験からの、私なりの答えなんです。

 親にもこのことは伝えたと思います。

「そんなつもりはない!」

 親お得意の言葉です。

 

 いや、本当にそんなつもりないのだろう。

 そうかもしれません。でも、親子だろうが友人だろうが職場の同僚だろうが、人間関係においてはそれぞれの行動における結果が全てといえます。

 お互い内面を推し量り、行動はこうだけどまあ、真意はここだよね、と言える関係であるなら、それもまたそれぞれの行動の結果であるわけです。

 で、私は親に対して上記のように思っているわけで、それもまたお互いの行動の結果でしかないわけです。親の真意がどうであろうと、私はそんなことを意識しようがないし、考えたくもない。

 私が上記のように考えたのは、ただただ結果でしかない。本当はどうだと言われても、それがどうした、と返すしかないんです。

 

 親は、自分が親であり、私がおのれの子供であるという「事実」に、甘えすぎたんでしょう。

 私が文句を言って、「そんなつもりはない!」と、自分が可哀想で仕方がないという悲痛な顔で鳴き声で叫ぶか、「いい加減にしろ!」と、おのれを否定するこちらを完全「敵」認定して、ひたすらに攻撃態勢をとって打ちのめすか。

 ひたすらにそんな行動をし続けた、それでいてまだ「子供にとっての大事な『親』」でい続けられると夢想するのは、甘えでしかない、と私は考えました。

 

 家族であろうと他人なんだ。

 私は以前親に伝えました。自分以外の人間は、自分以外の意思人格を持つ、自分ではない誰か、なのだと。

 彼女の答えは、「ちがう、家族は他人じゃない」でした。

 私の伝えたかったことは1ミリグラムすら伝わらず、汲み取ろうともしませんでした。

 

 親は必死、といわれても。

 親側の必死さばかりをアピールされても、子供側の必死さは、「親が必死」である事実の前には沈黙せざるを得ないということなのか。

 子育ては大変なんだ、分かってあげてくれ、といわれても。

 育てられた際の子供側の大変さは、それらに比べれば小さいというのか。

 子供は、親に対して、育ててもらった恩があるから、黙っていろというのか。

 

 あなたは、「生みの親」であっても、「母親」だとは思っていない。

 こう伝えたことがありました。

 人によってはなんて恩知らずな、非常識な、愚かな「子供」なのだろう、と考えるでしょう。

 

 親子、と言うものをあまりにも特別視しすぎている、そんな気がするんですよ。

 どんな関係であろうが、人間関係は人間関係。友人と付き合う際、どのように接するか、職場の人とどのようにコミュニケーションをとるか、親戚とどのように付き合うか。

 人間関係はどれも複雑で、大変で、場合によっては心が折れるし、もうあの人とは付き合わない方が良い、と判断することも必要です。

 

 親にとって子供は子供。

 これ、親の心境からすれば、すべての親の方からすれば、当然すぎることなんでしょうけど。

 つまりそれは、「子供」をただ一人の人間として見る努力を放棄しているようにしか見えません。

 子育ては大変。誰も頼れない。誰も手伝ってくれない。なのにそんなことを言うのか、お前はなんてひどいんだ。鬼だ悪魔だ、と言われるんだろうな、とも思いますが。

 これもまた、「子供」側の努力、意思、人格を、場合によっては否定します。

 「子供」の、「親から見た子供」以外の部分を全否定しているのではないか、そんなふうに思うんです。

 

 ただただ、「親は必死なんだ」という言葉だけで終わらせず、「親」側からの視点だけじゃなく、それ以外の視点からも考えてほしいと、私は思います。