人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

「普通」ほど曖昧でいい加減な言葉はないと思いませんか?

 人生雑論ノート、今回は「男女の区別と差別について」ではなく、「普通」という言葉について個人的に思ったことをnoteしていってみようと思います。

(※タイトル微修正しました。なんかくどかった……。)

 

 「男女の区別と差別について」は結局いつ書き終わるのかといったところですが、まあ、書きたいように書いていきましょうということで、今回は別テーマです。

別のテーマを書きたいときもあるんですよ。私は基本的に浮気性というか、三日坊主というか、飽きっぽいという感じの人なんで。

 と言いますか、別テーマ二回目です。懲りない人ですね、と思ってください。

 

 

 で、「普通」です。よく聞きませんか「普通」。巷に「普通」は溢れています。

あれが普通でこれが普通。どれもこれもみんな「普通」。ゲシュタルト崩壊を起こしそうな勢いです。

 このゲシュタルト崩壊の使い方は高確率で間違えていますが突っ込まないでください。いつも通りのノリです。

 

 私スマホ持ってませんです、はい。ガラケーです。「ホ」じゃなくて「ケ」です。ガラパゴスなケーなんです、ロマンですね。

 だってスマホも「ホ」も高くつくし。何で留守番電話サービスがオプションで有料なんですか。留守番電話の概念を作り運用を始めた人々に失礼ですよ!

 そして「ケ」を持っている私に、

「それ、ガラホ?」

 と聞いてこられる方がおられたりするのですが、

「いいえガラケーです」

 と答えると、その方が使いやすいの? とか聞かれたりします。

 使いやすいというか、Moneyの問題です。でも正直ちょっと前まではスマホのメリットが感じられなかったんですよね。電話が出来てメールもできる、「ケ」で十分じゃん、というところ。

 しかし最近、スマホにしたら電子書籍のデータを入れて電車で読めるし、思ったこと感じたことスマホにさっと入力できるし、BLOGの下書き書くのもできて時間を有意義に使えるんじゃね? とか思って迷い中。

 最近スマホ持ってるの前提のサービスばっかですしね。

 

 とまあ、お前「普通」について書くんじゃなかったんかいって言われそうですが、あの文章の中にはいっぱい「普通」が詰まってましたよ。

 まず、私にとって「ケ」は普通で、でも私が「ケ」を持っていることに対して疑問を持たれた方にとってはスマホ、あるいは「ホ」が普通です。

 また、留守番電話サービス略して留守電がオプションなんかじゃないのが私の「普通」で、でもスマホとか「ホ」ではそれはオプションチックで有料なのが「普通」。

 スマホ前提のサービスが多いのは、スマホ持っていることが「普通」であるという前提があるからなんですよね、「ケ」ユーザーにはつらいところ。

ちなみに、ガラパゴスなんて名前で呼ばれていたのは、日本での携帯電話のガラパゴス化を指していたようですね。日本のみで独自の進化を遂げたなんて、なんかかっこいいですね。要するに世界から見たら全然「普通」じゃない日本の「ケ」ということでございます。

 そんな「ケ」も現在なくなる流れなんですが、こういったところから自分がガラパゴスな「ケ」を生んだ日本ですらNOT「普通」であることを突き付けられます。それ自体は痛くもかゆくもないんですが、スマホの利便性、各種サービスの必要性から考えて、この「作られた普通」の流れに乗るしかないわけです。

 

 そうです、「普通」って作られてるんですよ。メイクとかファッションとか、食べ物とか音楽とか書籍とか、その他色々種々様々。

「どこかの誰か」が「作った普通」を、私たちは「みんな」やっているから、食べているから、持っているからと言って同じようにするわけです。

 で、「みんな」ってだれですか? どこにいて何やってる人が「みんな」ですか?

 例えば学校なら「自分」のいるクラス。会社なら自分が所属している部署支店。もっと範囲を広げてもいいかもしれませんが、その中の「みんな」が本当に「普通」なのかという疑問ですね。

 ちなみに私は「みんな」の「普通」を理解できず、そのため「協調性がない」とか言われました。どうやら、「みんな」の「普通」が実行できない時点で、何らかの集団あるいはその人の意識からはじき出されるようです。

 「普通」じゃない人とは付き合いたくありません。「普通」になって出直してきやがれ。

 でもその集団あるいは組織などといった共同体から出た時点で、「普通」が「普通」じゃなくなる現象は実はよくあることですね。

 サッカー好きな集団と野球好きな集団、アイドルが好きな共同体とオペラが好きな共同体、そしてそれらが大嫌いな人たち。

 さて、どこに「普通」の焦点を当てるべきでしょうか? スマホ関連の「普通」は通用しそうですか?

 サッカー好きな人たちは「普通」に昨日見たサッカーの試合の話をするかもしれません。まあ、Jリーグ派なのか、海外リーグ派なのか、などという単純な分け方をしても、「普通」は難しいですよね。

 ちなみに私はサッカー一切わかりません。見もしないです。しかし家族に凄くサッカーを見るのが大好きで、よくサッカーの話をする人がいるのですが、私理解できません。そしてよく「普通」を口にしていますが、そんなルール知らないし、そんな選手知らないし、そんな監督知らんがな、という状況。

 私とその人との「普通」の壁が厚すぎて話になりません。これくらい知っとけよって言われても、そんな興味ないこと知る努力するよりも、読みかけの本をさっさと読みたいですよとしか言えません。

 

 そして私の読む本は「みんな」の「普通」と違う場合もあるわけです。

 「みんな」が面白い、好きだといっている本に興味を示さないこともあり、示すこともあり。要するに基本的に基準は「自分」なんですが、「自分基準」で行動していると変人扱いされます。挙句の果てには「協調性なし」のレッテルを張られます。

 で、ですね。例えばAという集団の「AAというアイドルが好き」という共通事項がある場合、私はそれが別に好きじゃないとすると「協調性なし」と言われてしまうとして、それって根本的に「協調性」の問題なのでしょうか?

 「普通」イコール「協調性」の理論になることが、私の人生上多数あったのですが、「協調性」ってそういうことじゃないし、そも「普通」の基準が結局あいまいでいい加減なんですよね。

 「普通」という言葉に頼る時って、実は確固たる基準や根拠がない場合が多いような気がします、経験上。

 

「こうしろ!」

「なぜ?」

「わが校の規則だ!」

 はっきりしてますね。

 

「あれするな!」

「どうして?」

「法律だ!」

 何も言うことがありません。

 

「それをしろ!」

「Why?」

「それが普通だからだ!」

「どうしてそれが普通なの?」

「みんながしているからだ!」

「みんなってだれ?」

「みんなだ!」

 堂々巡りになるんですよね。

 

 なんと言いますか、きちんとした決まり事として確立していることを「普通」って言わないんですよね。あくまでも経験上ですが。

 基準がしっかりしていて運用もなされている、あるいはなされる予定のものに関してはきっちりと「法律」「学則」「規則」「約束事」などとしてビシッと決まっていますし、あえてあいまい表現にしているものがあったとしても、それはそれできちんとその際どうするかの方法論もあるんですよね。そしてそれを「普通」と表現しません。

 言ってしまえば、「基準」がはっきりしていないモノにこそ適用される表現が「普通」なわけです。

 「これはこうなのだ!」とはっきり言えるもの、きっちりした「基準」。これらがない場合にお茶を濁す形で使われるのが「普通」です。「濁す」って「あいまいにする」って意味らしいです、調べて初めて知った。無知で申し訳ない。「ごまかす」とかもあるみたいですね。要するにそういうことです。

 誰かと話していて、「こんなの普通」とか言われたら、「お茶を濁されているな」、つまり「あいまいにされているな」「ごまかされているな」と考えてみて、誰かもわからない「みんな」と一緒くたにされないようにちょっと距離を置いてみるのもアリですね。

 もちろん、積極的に「みんな」と同化するつもりならジャンジャン「普通」という言葉に導かれるままに行動するのもアリです。安心ですからね。

 でも結局どこにも「みんな」はいないんですが。

 

 などと言いつつ今回は終わりたいと思います。

 では、縁があれば、またお会いしましょう。