人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

男女の区別と差別について 3個目

人生雑論ノート、「男女の区別と差別について」のテーマで3回目となりました。

同じテーマで書きすぎなような気がしますが、終わらないなら書くしかないですしね。

イヤになったら、あるいは飽きたら、サラッと他のテーマを語っていると思われますが、今回は続きで行きましょう。

 

 

前回、「男女」の間にある「河」は怖くて渡るのなんかイヤですと言い捨てて終わったと思います。

実際、お互い恐る恐るの手探りですよね、下手なこと出来ないし。うっかり口を滑らそうものなら、あるいは、なんとなくタッチしちゃったりなんかしたら、

「この変態!」「セクハラ!」「訴えてやる」

とか言われる可能性がある世の中です、男女問わず。

 

「男性」は「女性」のことがよく分からないし、「女性」は「男性」が意味不明です。

理解しているつもりでも、全然違いました、見当違いでした、そう思っていたのはこちらだけでした、ということはよくあることでございます。

だがしかし、こういったことは「男女」関係なく、単なる「対人関係」においては普通に起こることでもあります。

しかし、「男女」の間で起こった場合、

「これだから男は嫌なんだ」

「あれだから女はダメなんだ」

という一言がついてしまう場合があります。

 

己の性別を意識し、自己を強く持つ、これ自体は悪いことではないはずです。

しかしなぜ、その意識が「異性」に対する攻撃行動になってしまうのでしょうか?

「異性」を否定する必要自体があるはずがないのです。「お互い様」かつ「持ちつ持たれつ」の関係が「異性」だからです。

 

「異性」「お互い様」「持ちつ持たれつ」などと書きましたが、そもそも「男女」という二つの「性」があるのは、それが必要だと進化の過程で判断がされたからですね。

「男女」で違う役割を果たし、時に協力し、次世代へと命をつなぐ。そのための「システム」です。

「男女システム」は人間だけが取り入れているわけではありませんね。いろんな動物が取り入れ、そのまま進化し続けております。

つまり、生物として合理的なシステムであると判断されているわけですね。そうでなければ消えていきます。生物サイクルは、そういう部分で非常に合理的で容赦ないですからね。

 

「男女システム」において、それぞれに違う役割が与えられているわけですが、その最たるものは何といっても「子作り」であることはあえて書く必要もないことです。

しかし、あえて書いたのはほかでもない、これこそが結局「男女区別と差別」の根本に相違ないと考えるからです。

これを読んでおられる方からしてみれば、

「当たり前じゃねーか」

という感想しか浮かんでこないようなことだと思いますが、だからこそ重要であり、認識しておく必要があることでもあります。

 

「子を為す」ために互いが必要であり、しかしこの「システム」における役割の違いからくる「機能」の差が、「男女」というものの間に「深くて暗い河」を作っているわけであります。

さて、その「機能の差」とは何かといえば、ごく単純な話です。

「男」は「生ませる」、「女」は「生まされる」。

ほら、書いてしまえばごく単純。しかし、こんな風に書くと確実にお叱りを受けることになりますね。

「単純じゃねーよ」

ごもっともです。しかし、現代社会で取り上げられている「男女問題」はこの単純な「機能差」に付随するものであり、結局最大かつ根本の問題はここになります。

 

「男」は「生ませる」という「機能」を持っています。

「~させる」という助動詞がつきます。細かく言うともっといろいろ複雑ですが、勘弁してください。主題じゃないし。

さて、この助動詞には意味がいっぱいありますが、その中に「使役」という意味があります。

誰かに、何かを、やらせる。

そして「男女システム」的に言うと、

「女に、子供を、生ませる」となります。

まさにこれが「男」の役割であるというわけです。

 

「女」は「生まされる」という「機能」を持っています。

ここで読んでおられる方は間違いなくこうツッコミを入れるでしょう。

「まて、『生む』の間違いだろうが」

あえてこの場においては違わないと言わせていただきます。

なぜなら、単に「生む」だと「自発的」な意味合いになると思われるからです。

「女」が「生む」のは自発的ではありません。「男」からの「働きかけ」が必要になります。

「生ませる」男が、「生まされる」女に働きかけることで、初めて「子作り」は成立します。

つまり、「男」は自発的に「子作り」できますが、「女」はどうしても「受動的」になり、故に「生む」というのはこの場合、この場においては不適格だと考えました。

 

ただ、こういう反論も予想されます。

「男だって、女がいなきゃ子供出来ないよ」

これに関しては一言、「機能差」です。

結局「男」は自分で生みません。生めません。機能的に不可能です。「女」に働きかけることでのみ、「男」は自分の子供を作れるわけです。

そして言ってしまえば、「男」の「子作り」は「働きかけ」ればその時点で終了ということになります。だから「男」は「自発的」に「子作り」できるという考え方をしています。

「女の方が働きかけることもある」

こういう反論もあるでしょうが、この場合に問われているのは「立場」であり、「機能」の視点の話からはズレます。この場で語っているのはあくまで「機能」です。さらに言うなら、あくまでも私の主観です。

 

では、「男」は「生ませる」であり、「女」は「生まされる」という、「機能」を前提として、進めます。

「男」は「機能」から見れば、「自発的」「能動的」です。

「女」は「機能」から見れば、「受動的」となります。

実際、男はある意味において、常に「自発的」に「生ませる」ことが可能です。なぜか。制約が特にないからです。

己の体の健康やらなんやらを考えていれば、「男」は短時間で何人にでも「働きかける」ことが出来ます。あくまでも「生ませる」のが役割だから、当然ともいえます。

しかし「女」はそうはいかない事情があります。

「子作り」が成功した時点で、「女」には様々な制約がつきます。

一度「妊娠」した時点で、一定期間はその「妊娠」に拘束されます。「妊娠」した状態でまた「妊娠」はできないのです。

自分の体の中で「子育て」するため、己自身の活動も制限されます。場合によっては死にます。

でも「男」はそういう心配はほぼゼロです。「生ませる」ことによる制約はありません。「妊娠」しないからです。

 

そして、そういった「機能差」による「男女役割」が、現代社会の「男女役割」の問題となっているのは当然です。

「女」は「機能」的にどうしたって身動きが取れなくなる時があります。

「男」は「機能」的に身動きが取れなくなることはなく、常に能動的に動けます。

 

「子を為す」のは「女」の「機能」であり、つまり「男女役割」における「仕事」です。

そしてその機能故に、「女」は生んだ後も子育てをすることになります。生まれたばかりの子供を育てるための「機能」も「女」には備わっています。

そのため、「子育て」=「女の仕事」となり、それは「機能」から「仕事」へ、そしてそのまま「価値観」となります。

「男」は「女」が妊娠していても動けます。「男女システム」による「機能」から動けなくなることはありません。「お相手」が「妊娠」したら次の「お相手」をさらに「妊娠」させることは機能的におかしくありません。

でも、「子育て」の「機能」はありません。「機能がない」=「仕事ではない」となります。それもまたそのまま「価値観」となります。

 

そして現在、その「価値観」が合わなくなってきている、ともいえる状況です。

「女性」は、結構昔から「男性が前に出て女性は内助の功」に対して文句があったようですが、なんだかんだ言いつつもその役割に落ち着いていました。

 

ちなみに、「昔の一般庶民は違う」という議論がありますが、逆を言うと「一般庶民ではない人は違わない」とも言えるわけです。

昔でいう「貴族」ですね、この場合。

源氏物語』をちょっと読んだことがあるのですが、そこの描かれている「男女」は、まさにそういう世界の人たちであり、上記した「男女価値観」そのまんまのあり方でした。

主人公の源氏は、作中ではハーレムを築いていたりします。それ以前に、実家がすごく高位の奥様がいるにもかかわらず、あちこち夜這いをかけまくり。やり過ぎて奥様が呪われたりします。

そしてそういう場合、女性に拒否権があまりない場合が多いのです。とっさに気づいてうまく逃げたり隠れたりする女性も書かれていましたが、そういう女性に対して源氏は怒っています。逃げ隠れする方からすれば、「源氏いい加減にしろ」という気持ちなわけですが。

しかし源氏からしてみれば「恥をかかされた」という怒りがあるわけです。女性の気持ちとか立場とか、基本的に無視です。根本的に、女性の扱いがそうであるのが普通なわけです。

「出家」という逃げ道も用意されていましたが、要するにそこまでしなといけなかったわけです。しかも源氏は、自分の愛する妻が、「出家したい」と言っていたのにもかかわらず、死ぬまで許しませんでした。最後の逃げ道すらも、場合によっては思うようになりません。

 

しかし源氏は何というか、アクティブです。まさに「男女システム」における「男」の「機能」を体現しているようなキャラです。

源氏というキャラ、作品の主人公が、「男」を体現しているというのは興味深いですね。紫式部さすがです。

そして作中の女性は基本的に皆「受け身」です。女性から積極的にアプローチかけるなんてありえません。男性から「歌」が来たり、なんか夜這いをかけられたりと、男性からのアプローチを「待つ」のが普通です。

しかも男性がきっちり通ってくれなかったらなかったことになるわけです。日数も決まっています。なんかそうだったような気がします。

男性が「働きかけ」、女性がそれを「待つ」という、まさに「男女システム」の「機能」そのままの男女のあり方が書かれていました。

つまり、当時の「価値観」がそうだったというわけですね。上流階級においては、ですが。

 

こういった「価値観」は昔からあったという事実は間違いなさそうですね、というところで、今回はひとまず終わりにしましょう。

では、ご縁がありましたら、またお会いしましょう。