人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

男女の区別と差別について 2個目

人生雑論ノート、前回の続きです。

男女の文化というものは、幼いころからしっかり"しつけ"されていくようですね、といった感じになったと思います。あくまで私の主観ですが。

 

違うと思っておられる方、私のこの思考垂れ流し記事などに惑わされず、しっかりと自分の意志を貫いてください。そして、何で自分はこういう考えを持っているんだろうとか考えると、人生が意外に充実するかもしれません。単なる時間の無駄に終わる可能性もありますが。

私は物事をつらつら考えるのが好きなので、そういう意味では充実していると思ってます。

 

 

で、男女の区別と差別の境界線の話と言うか、問題提起みたいなことをして、前回は終わりましたね。

男はこの色、女はこの色、と分けるのは、「区別」か「差別」か、といったものだったと思います。

これ、個人的には状況によって変わるのではないかと思っています。

前回のエピソードでは、「青」を持っていた「女の子」が、他の「女の子たち」に「おかしい」と言われていましたが、これは、個人的には「差別」かな、と思っております。

「女の子たち」を責めているわけではありません。しかし、「女の子かくあるべし」という意識において、その子がちょっと、持っているモノの色が違うというだけで攻めるのは、やっぱり「差別」になっちゃうかな、と考えました。

 

しかし不思議ですね。その子が青いモノを持っていることの、何が問題だったのでしょうか?

「女の子かくあるべし」の考えからすれば、その子がおかしいのだから攻められて当然でしょうか?

その子が「青」を持っていることで生じる不利益があるのなら、その行動は納得がいくのですが、特に不利益は生じないはずです。

 

個人的に、自然な会話の流れはこんな感じです。

「アタシの持っているのはピンクだよ」

「ワタシも」

「わたしの持っているのは青いよ」

「あ、そうなんだ」

「そっか、青いモノ持ってるんだ」

普通に「青」持ってても「そうなんだ」の一言で済む話と言うことですね。だって、誰も損しないし。

しかし、幼いころからの「女の子かくあるべし」、つまり、「女かくあるべし」教育により、「女はこうだ!」と強く意識してしまっているがゆえに、流すことが出来ないんです、たぶん。

それはつまり教育する側の意識の強さを表しているということになります。子どもは大人をよく見ていますから、しっかりと親やら世間やらの意見を吸収していきます。その吸収する際の、教育する側、しつけする誰か、そういった情報を発している何かの、そういった「かくあるべし」の意識の強さもそのまま取り込んでしまうことになります。

意識の強弱なんて、選びようがないですからね。

 

「私たちは女である」

「女はピンクが好きで、ピンク色のモノを持っているのが当たり前」

「だから女である私たちはピンク色のモノを持っている」

「あいつは私たちと同じ女なのに、ピンク色のモノを持っていない」

「女ならピンク色のモノを持つべき」

「だって、私たちは女なのだから」

「だから、おかしいと指摘して、同じようにピンクを持つようにしなければ」

こういった無意識化での思考が働いているのかもしれないですね。やだ、無意識怖い。

 

「女」というものに対する「ステレオタイプ」が、幼稚園時代で見事に完成しています。三つ子の魂百までと言いますので、きっとこの子たちは大人になっても「女」を意識して生きていくことでしょう。

悪いことではないです。「女性」なんだから、「女性」であることを強く意識することは当たり前です。

しかしその「女性像」は、「かくあるべし」という意識による「ステレオタイプ」ということになります。

そうして、また次代へ「かくあるべし」として、その意識がやはり無意識に伝えられていくわけですね。

 

「幼稚園の色」エピソードから、ちょっと女性側からの「区別」「差別」を見てみましたが、男性側でも割と似たような意識は働いていそうですよね。

男の子がピンク色を持っていると、「女みたいだ」と言われ、バカにされます。

「女みたい」と言ってバカにするというのは、遠回しに「女」をバカにしているとも取れます。

男は男らしくあれ、女みたいなやつはバカにしてよし。

こういう意識が働くと考えます。

男は男らしく。「ピンク」は男らしくない。

なぜ、「ピンク」は男らしくないのでしょうか?

そのように「教育」「しつけ」されるからですね、たぶん。……はい、たぶん。

 

ほら、日曜の朝、「ナントカレンジャー」ってあると思うんですが、あれ、色の役割がきっちり決まってますよね?

あれは製作者側の意識の表れであり、つまり作った大人たちによる「かくあるべし」の塊であります。

どれだけ制作者の方々の意識があるのかは分かりませんが、結構強固であるように思われます。

そして、子供たちはそれを見るわけですね。

しかし、「戦隊もの」は子供だけが見るわけでもないです。子供たちの親も見ます。つまり子供だけでなく、一緒に見る親も意識して作られるわけです。

確固たる「かくあるべし」が、作る側、見る側にしっかりと確立されており、子供たちはそれをしっかりと吸収していくということになります。

 

ちなみに、そういった表向き「子供向け」の番組で、男女の役割自体がきっちり分けられているというのは、周知の事実です。

必ず男性がリーダーで、女性はそれを支えるみたいな役割が多いような気がします。「戦隊もの」なんて見る機会が一向にありませんが、私が子供の頃の記憶を引っ張り出してみると、そんな感じです。色ももちろん固定。

最近はそういったことに気を付けて作られているらしいですが、根本部分は、聞く限り昔と変わっていないように思えます。あくまでも聞く限りですが。

色と男女の役割をサイコロでシャッフルして「戦隊もの」作ってみたらどうなるでしょうね?

おそらく、テレビ局と制作会社にすさまじい勢いで非難殺到することと思われます。

その際の非難の言葉とか、年齢層とか、性別とか、家族構成とか細かくデータとっていくと、何か面白いものがすさまじい勢いで見えてきそうです。

やべえ、超見てえ。

……失礼しました。

 

こういった「性別役割」が後々反映されていき、男性は「総合職、管理職」となることが多く、女性は「一般職、事務」という、会社とかに入社して以降の役割分担にも影響していくわけですね、とか考えてみます。

しかし現在、「いや、性別だけでそういうことを判断するのはイカン!」という風潮に微妙になっているような空気が流れておりますが、それが「女性活躍」とか「ダイバーシティ」とかの改革につながっているわけです。

しかしながら、男女それぞれの意識自体がそのまんまで、そういったことに着手しても、大していい結果を生まないということが、いろんなところで起きています。そしてそれぞれの性別の人が、その良い結果が出ない責任を互いに押し付けあっているという構図が出来上がっているような気がするのは、私の目と耳と思考が腐っているからですか?

 

なんとなくですが、「男女かくあるべし」の意識が、そういった改革とかの阻害要因になってしまっているのが、非常に残念でなりません。

たかが「性別」。されど「性別」。

 「男と女の間には、深くて暗い河がある」

そんな歌があるらしいですね。私よく知らないのですが。上記の歌詞、間違えているかもしれないです。

ともあれです。こんな歌詞の歌が出来ちゃうほどに、「男女」というものには隔たりがあるということでございます。

意識的な隔たり。お互い認識しているはずなのに、「男女」というものの間には、「深くて暗い河」が出来てしまっている。

では結局この、「深くて暗い河」って具体的にどういったものになるのでしょう?

「深くて暗い」と言ってはいますが、河です。互いは見えます。もしかしたら、普通に話が出来る距離かもしれませんね。

でも、間にある川は「深くて暗い」わけです。そんなところ渡りたくないのが人間心理。私は絶対イヤです。何がいるか、あるか分からない。超怖い。

「男女」の隔たりの心理って、この歌詞からすると、そういったことを意味することになるわけですね。

じゃあ、橋でも作ればいいじゃない。

そんなところに橋造ること自体が恐怖です。誰がそんな文字通りの「危ない橋を渡る」ような真似しますかということになります。

無論、私はイヤでございます。

 

と、意気地なしな発言をしたところで、今回はここまでとしたいと思います。

では、縁があれば、またお会いしましょう。