人生雑論ノート

その日その時なんとなく思ったことを書き散らすだけの、偏屈ド変人の思考垂れ流しブログ。

フリーゲーム『ナントカ三術将』感想色々 その壱

 こんばんは。

 今回は「三條」様制作、フリーゲーム『ナントカ三術将』について、色々書かせていただこうと思います。

 よろしくお願いいたします。

※ネタバレ配慮はしておりませんので未プレイの方はお読みにならないようお願いいたします。

 

  というわけで、感想を書かせていただこうとしているわけですが、今回書きたいのは、『ナントカ三術将』における「無色」についてだったりします。

 いつもは特定のキャラのあれやこれやと、無いこと無いこと色々書いているわけですが「今回キャラについてちゃうんかい」という感じになっております。

 いや、キャラについても書きたいんですけど。Twitter上において「黄色い人」と呼ばせていただいているヒトについても途中まで書いてますし。

 個人的においしいキャラの宝庫ですので、不快でなければ投稿させていただいた際はお読みくださいませ。 

 

 では、どうぞ~。

 

 ということで、今回は『ナントカ三術将』における術の色の中でも特別な扱いとなっている、「無色」について書かせていただきたいと思う。

 『ナントカ三術将』シリーズにはファンタジーものお馴染みの「術」が存在する。そしてその術の系統は四つに分けられ、それぞれに「色」が設定されている。

 そしてその色は「青・赤・黄・緑」であり、簡単に分けると赤=火、緑=風、青=氷、黄色=雷、といったところになるだろうか。しかしそれ以外にも「影」の術や「四つの数字」の術などがあり、実際には「四色」に準じない術も豊富にあると思われる。とはいえ、基礎となる「色」自体はあくまでも「四色」ということになっているとゲーム初期に説明される。

 しかし、作中にて「四色」だけだと思われていた色に「無色」という五つ目の色が存在することが明示され、その力は「空間操作」となっている。実際に「色」を調べることができる機器を用いた際、それを見た者のセリフが「透明」であった。「透明」、つまり「色がない」、「無色」ということになる。

 この「無色」=「空間操作」であると見た時、私はとある疑問を抱いた。

「あ~、なるほど。確かに空間そのものに色はないな~……。

 ……ん? 空間ってそもそも「無色」なのか?」

 この疑問が今回の感想を書こうと思ったきっかけである。

 

 私自身のきっかけ話はさておき、「空間操作」=「無色」についてである。

 そもそも「色」とは何か、というところからになるが、これはゲームにおける「魔力」というよりも、私たちが実際に見て「赤」「青」と感じる「色彩」という意味合いで見ていこうと思う。

 色には「光の三原色」「色(料)の三原色」などと呼ばれるものがある。

 「光の三原色」=赤・緑・青。

 「色(料)の三原色」=シアン・マゼンタ・イエローだが、かつては赤・黄・青とされていた、らしい。

 ちなみに、かつての「色(料)の三原色」に「緑」を加えて「四つの原色」とする考え方もあったようである。

 また、「心理学的原色」と呼ばれるものもあるようで、こちらは「赤-緑・青-黄・白-黒」の六色となっているそうだが、詳しくは分からない。

 『ナントカ三術将』シリーズにおいて使用されている色は「青・赤・黄・緑」。

「色(料)の三原色+緑」「心理学的原色」はこれら四色がすべてそろっており、「心理学的原色」においては『ナントカ三術将3』で出てくる「黒」も加えることができる。

 「心理学的原色」の場合「白」が余ることになるが、「無色」をどう考えるか? という問題にもなってくる。

 

 さて、『ナントカ三術将』シリーズにおいて、「色」は「光の三原色」、「色(料)の三原色」あるいは「心理学的原色」なのか、あるいはもっと他の考え方なのか。

 製作者様の設定による、としか言えないのも事実だが、ココはまあ少しだけ頑張って色々妄想してみるのも悪くないのではないだろうか。

 私個人としては、色の取り合わせ的には「色(料)の三原色+緑」であり、しかし「色彩」の性質的には「光」である、と考えている。

 

 このゲームにおいては「空間」=「無色」という考えであるのは間違いない。

 しかし、その「無色」とはそもそもどういう状況において「無色」であろうか?

 私は上記したように「空間って無色だっけ?」と考えたわけだが、皆さん自分が今いる空間を考えてみてほしい。空間とは無色であろうか?

 下手をすると「空間とは何か?」という問いにすらなってしまいかねないのだが、そこまで気負わず、テキトーに考えてみてほしい。はっきり言うが、私は実際の所理数系の問題はさっぱり分からない。昔の大天才が一つの答えを出してはいるらしいが、知らない。そして仮に読んだとしても、十中八九ではなく、もはや十中十理解できない。

 というわけで、私なりに気楽に考えていこうと思う。 

 

 水を見てみよう。水の状態によって「濁っていて底が見えない」「澄んでいて底が見える」という状況になる。この場合後者は「透明」であり、「無色」と考えることができるのではないだろうか。しかし、底が見えようが何であろうが確実に水がある。濁っていようが透明であろうが水自体は確実にあるのである。

 この水を「空間」と考えてみよう。私たちは水の中から周りを見てみるわけである。そこから見える景色、「色彩」はどうなっているだろうか?

「そんなもの、どこの水かで変わるだろ」

 その通りで、プールなのか海なのか川なのかでまったく見える景色、「色彩」は全く変わる。その他様々な状況の違いによって同じ場所でも全く違う「色彩」を私たちは認識することになるだろう。

 だがしかし、水は水である。水に色がついていたとして、それは「水の色」なのだろうか? 岩の色やプールの色、草木の色が見えたとして、それは水の色ではない。

 つまり、「水の色」だと認識したものは「水の色」ではない、ということになる、のだろうか?

 この場合、やはり「空間に色はない」という考え方で間違いはない、ということになる。しかし、私は「空間って無色だっけ?」と考えてしまったわけであり、実は上記の考えをこの時点で否定してしまっている。どういうことであろうか?

「そもそも「空間」を認識している私たちは、「空間」というモノを周囲の状況、「色彩」と切り離して考えているのだろうか?」

 「空間って無色だっけ?」と考えた際、頭をよぎったのは多分こんな感じの思考である。たぶんもっと思考内容は大雑把でまとまりはなかったと思うが、今まとめるとこんな感じになると思う。

 ……違うかもしれない。

 ともあれ、「空間」とは自分を含め周囲にあるもの、今目の前にある物ない物すべてを含んでいるはずである。目の前にドアがあり、その向こうに部屋か廊下があるとして、私たちは必ず「ドアの向こう側」を認識するはずである。とはいえ、意識的にはドアによって空間は切り離されており、常にそれを意識してはいない。しかし「空間」そのものが途切れているとは考えていないわけで、だからこそ私たちは普段普通に歩くこともできている。

 ようするに「空間」とは「自分が認識している全て」であるともいえる。……いえる?

 「水が濁っている」状態で水中にいた場合、私たち自身は「水が濁っている」とそのまま認識し、それ自体を「水の色」と解釈するのではないだろうか? 水中とはそのまま「空間」であり、つまり「空間が濁っている」と感じるのではないだろうか? その濁りの原因が何であろうとも。

 何が言いたいのかというと、「空間」の「色彩」とは結局「今見えているもの全て」なのではないだろうか、ということである。

 

 さて、「空間」そのものに「色彩」があるか否かであるが、「空間の色彩」とは「己が認識する全て」なのではないか? と自分なりに訳の分からない考えをとりあえず書いてみた。

 無論「認識していないところにも「空間」あるだろ!」という考えをお持ちの方々がいらっしゃるだろうし、それは正しい。間違いなく認識しようがしまいが、「空間」は存在する。しかし、「空間」に限らず、結局認識の主体である「自己」が認識しなけば私たちはそれが「ある」とも「ない」ともいえないわけである。

 つまり、ここでは認識の主体である「自己」、すなわち「私」を主眼において考えよう、ということである。

 それなら最初からそう書けよ、と言われそうではあるが、ご容赦願いたい。

 

 「透明」という言葉であるが、これは「何かあるけどそれに色彩を認識できない」という状態であると考えてみる。水を見た際「透明」と私たちが考えるのは、そもそも水の存在を認識し、かつそれに「色彩」を確認できない状態である。「水の底が見える」という状態においては、「水の底」までの水に「色彩」がない状態ということになる。

 しかし、「水の底」を認識している以上、底には「色彩」が存在する。そして「水の底」によって私たちが見る水の「色彩」は変わってしまう。

 結局「空間」の「色彩」は、その時の状況、場所そのものの「色彩」なのではないだろうか? という、もうすでに一度書いてあることが自分なりの一つの結論となった。

 さて、『ナントカ三術将3』における「無色」の説明や演出において、この考えは矛盾するか? というと、私個人としては「しない」と考える。

 「無色」=「空間」であるのなら、計測器を使った際「色に変化なし」なのはむしろ納得がいくからである。つまり、「すでにそこに在るもの」の「色彩」なのだ。固定された「四色」のいずれかの変化のようにならないのはむしろ自然だといえる。

 

 さて、あくまでも自分なりに「無色」の「色彩」について書いてみたのだが、「心理学的原色」の話において、『ナントカ三術将3』で出てくる「黒」も加えることができる、と上記し、さらに「白」が余るということも書いたのは覚えておられるだろうか。

 この話の出し方からして、私が「心理学的原色」の「白」=『ナントカ三術将3』の「無色」かもしれない、と考えているのはお分かりいただけると思う。

 また、「私個人の考えは、色の取り合わせ的には「色(料)の三原色+緑」であり、しかし「色彩」の性質的には「光」なのではないか?」ということについてもすでに書いてある。

 「光の三原色」的な考え方として、光を重ねると白くなる、というモノがある。「無色」が「空間」そのものの色であるとするならば、「色彩」を重ねるごとに「色彩」が薄くなるとも見える「光」の色彩の考え方が合う気がする。

 しかし、同じく『ナントカ三術将3』にてでてくる「黒」は、「光」ではなく「色(料)」の考え方である。

 実際に『ナントカ三術将3』の「黒」は「黒」そのものでなく、多くの「色」の集合体である。多くの「色彩」を重ねることで黒くなるのは「色(料)」の在り方である。

 では、『ナントカ三術将』シリーズにおける「色」は「光」ではなく「色(料)」の考え方なのか? ということになるのだが、これに関しては「「黒」はそもそも前提からして異質」と考えている。

 「黒」を構成する様々な「色」は魔力そのものではなく、ヒトを「魔晶石」に変えたものである。つまり、他の「色」と単純に比べることはできないのではないだろうか?

 「無色」は計測器で調べると「透明」であったが、「黒」に関して同じように調べた場合、果たしてどう出るのであろうか? 少なくとも「黒」とは出まい。

 「色」とは「魂」を表すものらしいが、「黒」を構成する「魔晶石」は物理的肉体を持つ存在を変化させたものであり、「黒」をほかの「五色」と同じように扱うことはできないのである。

 そもそも「黒」はそういう意味では「色」ですらなく、「黒」を「究極の色」だといった研究者に対しては、

「そもそも「色」が何なのか勉強しなおしてこい」

 と言っても恐らく罰は当たらないだろう。

 少なくともこの研究者は「無色」の持ち主を「魔晶石」にかえ、様々な「魔晶石」からなる自分の存在を安定させようとしたようだが、「空間」そのものである「無色」を己に加えたところで、もともと在るそれらが変化するとは思えない。恐らく何の意味もないだろう。彼はただ彼のままである。

 

 さて、結局「黒」は「色」ではない、という個人的結論も出たので、「心理学的原色」に関しては『ナントカ三術将』シリーズにおいてはやはり成立しないということになるかもしれない。

 あくまでも個人的にではあるが、色の取り合わせ的には「色(料)の三原色+緑」であり、しかし「色彩」の性質的には「光」、というのが一番妥当かもしれない、などと考える。

 

 つらつらとテキトーに考えを書いてみたが、「意味わからん」という方が多いと思われる。私としても単純にあれこれ考えてみただけなので、特にこれといった意味合いがあるわけでもない。

 

 ……というわけで、今回はここまでで終わります。

お疲れ様でした~。

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